宮島線との直通運転開始
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市内線車両は、1951年(昭和26年)3月には800形(初代)を10両導入。同じ年に150形の車体更新が始まった。1953年(昭和28年)9月には500形(2代)を5両導入。その年に更新を受けなかった100形(初代)は全車廃車になった。1955年(昭和30年)3月には550形を5両導入。551のみ製造当初は間接制御を採用し、宮島線との直通許可を受けていた。 宮島線車両は、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)より、1947年(昭和22年)2月に1050形を購入。1954年(昭和29年)に全鋼製車両に更新した。1957年(昭和32年)に1060形を導入。最後の新製高床車になり、直通形の増備に移行した。 1955年(昭和30年)頃、国鉄山陽本線や路線バスとの競合により、宮島線の利用者数は伸び悩んでいたため、当時バス事業が郊外路線延長で利用者数が伸びていたこと、以前より千田車庫での整備のために連絡線がもうけられていたが、1957年3月の太田川放水路の整備による区画整理により、己斐駅・西広島駅の移転の必要があったことより、市内線と宮島線を直通させることを計画。市内線用の低床車両を乗り入れる方式を採用した。それに併せて、宮島線の各駅に低床用のホームの整備を行い、1957年(昭和32年)5月に己斐電停・西広島駅の移転が完了。1958年(昭和33年)4月より団体貸し切り列車として直通運転を開始した。1962年(昭和37年)1月に広島駅から広電廿日市駅まで15分間隔の定期運転を開始。定期運転開始に併せて、オリエントピーチの車体色にベネチアンレッドの帯を配した「直通色」が登場した。1963年(昭和38年)5月には広電宮島口駅まで延長された。 直通形車両も増備され、550形551をはじめ、1958年(昭和33年)3月には850形を3両導入。1960年(昭和35年)より2000形、1961年(昭和36年)より2500形の導入を開始した。2004号については、経費削減や広電のチャレンジ精神より、日本車輌製造が製造したフレームに、自社で鋼製車体を組み立て、1962年(昭和37年)11月に竣工した。2000形については同年末までに合計6両を製造。その後、2500形にも同様に製造した車両がある。 また沿線整備も進められ、楽々園遊園地の施設の整備および別会社への移管。宮島方面は、1958年(昭和33年)3月に宮島松大観光船(現・宮島松大汽船)に出資。1959年(昭和34年)4月に、広島電鉄が大株主の広島観光開発が、『宮島ロープウエー』を開通。1965年(昭和40年)には、現在『宮島口もみじ本陣』を運営している『広電宮島ガーデン』を設立した
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