奥越豪雨と堤体側面越流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:01 UTC 版)
「笹生川ダム」の記事における「奥越豪雨と堤体側面越流」の解説
1965年9月14日、前線の影響で真名川流域を中心に集中豪雨が発生した。14日朝から降り始めた雨は夜半に掛けて強くなり、午後9時から10時までの1時間に89.5ミリを記録した。その後も豪雨は降り続き降り始めからの雨量はダムのある本戸地点で1,044ミリ、14日1日だけで844ミリと過去に例のない記録的な豪雨となった。14日午後10時には西谷村の住民が避難を開始し、午後10時30分には放流開始の目安となる洪水期制限水位を超えたため関係各所に放流開始の伝達を行うが、中島発電所から民家流失の可能性と発電所配電盤の浸水の危険性があるという理由で放流の延期が要請され、ダムは放流を行わず洪水を貯留し続けた。この間ダムには莫大な洪水が押し寄せ、日付が変わる15日午前0時頃には計画高水流量の3倍近くとなる毎秒1,002立方メートルの濁流がダム湖に流入した。午前1時にはダムからの放流開始を下流自治体に通知したが、西谷村住民の安全が確認されるまで放流は行わず、午前2時に中島発電所より住民と発電所職員の避難が完了したという連絡を受け午前2時20分に放流を開始した。 住民の避難完了が確認されるまでダムの放流を行わなかったことから結果的に下流への洪水がピークとなる時間を10時間近く遅らせたが、洪水調節容量をほぼ使い切ったためダムは流入量と放流量を同量にする異常洪水時防災操作(ただし書き操作。いわゆる緊急放流)を開始する。放流開始後流入量と降水量が急速に減少し落ち着きを見せたが、15日朝7時頃より再び時間雨量40ミリ以上の豪雨が降り始め、流入量も急増した。4時間以上降り続いた豪雨は満水のダム湖に大量に流入、午前11時頃にダム湖の水位は貯水の限界点であるサーチャージ水位まで残り8センチメートル、ダムの天端まで残り約1.5メートルに迫った。ダムの最大放流量は毎秒140立方メートルであったが流入量が尋常ではなく貯水も限界だったため、異常洪水時防災操作規定に従い増加する流入量に比例した放流量でゲートの開閉を調節した結果、貯水量がピークとなった午前11時頃には最大毎秒586立方メートルと計画で定められた最大値の4倍以上の放流量となった。ダムの直下は巨大な水柱が立つほどの激流であった。そして時刻は特定できないがダムの側面より洪水が越流し始めた。当時ゲート操作のためにダムに居た管理所員の証言によれば、ダム天端と監視所の隙間からダムより低い県道に向かって貯水が越流し、法面に濁流が衝突してダム右岸斜面を流下したとされている。奥越豪雨では豪雨と流入量のピークが二度発生したため約18時間にわたって異常洪水時防災操作水位の状態が続き、午後8時過ぎに水位は操作開始基準を下回り流入量も急速に減少したため危険な状態を脱したが、堤体側面からの越流と許容量を超えた洪水吐からの放流によりダム本体・洪水吐機能が重大な危機に直面した。 この記録的な豪雨により真名川流域は過去に例を見ない大災害を引き起こした。特に西谷村は中心部にあたる中島地区・上笹又地区が、真名川・雲川の洪水や周辺の沢で発生した土石流が三方向から一度に押し寄せたために壊滅的な被害を受けた。家屋全壊283戸、半壊85戸、一部損壊54戸、浸水被害67戸と甚大な被害を受け中島発電所も浸水したが死者1名、重傷者1名、軽傷者2名と家屋被害に比して人的被害は極めて少なかった。これは村民の間で洪水が発生した際には高台にある専光寺という寺へ避難するという意識が周知徹底されていたからである。死者1名は忘れ物を取りに帰宅した際土石流に巻き込まれたものであった。住民の防災意識の高さと、避難完了までダムの放流を止めたことにより西谷村の人的被害は最小限で抑えられている。
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