西谷村とは? わかりやすく解説

西谷村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 07:38 UTC 版)

西谷村



西谷村

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日進町 (さいたま市)」の記事における「西谷村」の解説

江戸期武蔵国足立郡大谷領に属する西谷村であった。さらに古くは高鼻荘に属していたと云われている。村高正保年間の『武蔵田園簿』では172石余(田67石余、畑104石余)、『元禄郷帳』および『天保郷帳』では167石余であった助郷中山道大宮宿出役していた。化政期戸数20であった初め幕府領1624年寛永元年)より知行旗本柴田氏。なお、検地1661年寛文元年)に実施1698年元禄11年)より再び幕府領1702年元禄15年)より知行旗本小川氏1828年文政11年)より大宮宿寄場55村組合所属していた。 幕末時点では足立郡属し明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、幕府領代官大竹左馬太郎支配所)、および旗本小川源之進の知行であった1868年慶応4年6月19日 - 幕府領武蔵知県事山田政則(忍藩士)の管轄となる。 1869年明治2年1月13日 - 武蔵知県事宮原忠英管轄区域大宮県設置9月29日 - 県庁浦和置かれ浦和県改称12月2日 - この日までに旗本領が上知され、浦和県管轄となる(府藩県三治制参照)。 1871年明治4年11月13日 - 埼玉県管轄となる。 1879年明治12年3月17日 - 北足立郡属す1889年明治22年4月1日 - 町村制施行に伴い大成村櫛引村上加村下加村・西谷村・上内野村西内野合併し日進村成立日進村大字西谷となる。 1940年昭和15年11月3日 - 大宮町三橋村日進村宮原村大砂土村合併し大宮市発足。同市の大字となる。 1951年昭和26年4月1日 - 大宮市立日進北小学校(現・さいたま市立日進北小学校)が開設される1955年昭和30年) - 大宮西谷県営住宅建設され翌年竣工する1958年昭和33年7月10日 - 町名地番変更により、大字西谷一部から日進町三丁目成立。 (以降下記日進町成立節を参照

※この「西谷村」の解説は、「日進町 (さいたま市)」の解説の一部です。
「西谷村」を含む「日進町 (さいたま市)」の記事については、「日進町 (さいたま市)」の概要を参照ください。

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