下加村
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「日進町 (さいたま市)」の記事における「下加村」の解説
江戸期は武蔵国足立郡吉野領に属する下加村であった。さらに古くは大谷領に属していたと云われている。下加村は下賀村とも書かれた。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では327石余(田125石余、畑202石余)、『元禄郷帳』では316石余、『天保郷帳』では326石余であった。助郷は中山道大宮宿に出役していたが、正徳・安永には日光御成街道大門宿にも代出役していた。化政期の戸数は33軒で、村の規模は東西3町、南北5町余であった。甘藷の生産が盛んで主に鴻巣宿に出荷していた。 1624年(寛永元年)より知行は旗本柴田氏。なお、検地は1661年(寛文元年)に実施。 1698年(元禄11年)より幕府領、以降幕末まで帰属の変遷はなし。また、持添新田の原地新田があり、検地は延享2年に実施。 1828年(文政11年)より大宮宿寄場55か村組合に所属していた。 幕末の時点では足立郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、幕府領(代官・大竹左馬太郎支配所)、および金剛院領であった。 1868年(慶応4年)6月19日 - 幕府領が武蔵知県事・山田政則(忍藩士)の管轄となる。 1869年(明治2年)1月13日 - 武蔵知県事・宮原忠英の管轄区域に大宮県を設置。 9月29日 - 県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。 1871年(明治4年)11月13日 - 埼玉県の管轄となる。 1879年(明治12年)3月17日 - 北足立郡に属す。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、大成村・櫛引村・上加村・下加村・西谷村・上内野村・西内野村が合併し、日進村が成立。日進村の大字下加となる。 1939年(昭和14年) - 地内に陸軍造兵廠大宮製作所(後の陸上自衛隊大宮駐屯地)が進出、1940年夏頃第一工場が完成、第二工場 - 第五工場を逐次建設する。 1940年(昭和15年)11月3日 - 大宮町・三橋村・日進村・宮原村・大砂土村が合併し、大宮市が発足。同市の大字となる。 1947年(昭和22年)9月1日 - 日進町一丁目311番地に当たる場所に日進公民館が開設される。現在の場所(日進町二丁目1195番地2)とは異なる。 1960年(昭和25年)2月28日 - 現在の日進町一丁目に当たる区域(当時の櫛引町二丁目404番地の場所)に日進幼稚園が開園する。 1958年(昭和33年)7月10日 - 町名地番変更により、大字下加の一部から日進町一丁目が成立。また、大字櫛引および大字下加の各一部から櫛引町二丁目が成立。これにより大字下加は消滅する。
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