下加村とは? わかりやすく解説

下加村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:59 UTC 版)

日進町 (さいたま市)」の記事における「下加村」の解説

江戸期武蔵国足立郡吉野領に属する下加村であった。さらに古く大谷領に属していたと云われている。下加村は下賀とも書かれた。村高正保年間の『武蔵田園簿』では327石余(田125石余、畑202石余)、『元禄郷帳』では316石余、『天保郷帳』では326石余であった助郷中山道大宮宿出役していたが、正徳安永には日光御成街道大門宿にも代出役していた。化政期戸数33軒で、規模東西3町、南北5町余であった甘藷生産が盛んで主に鴻巣宿出荷していた。 1624年寛永元年)より知行旗本柴田氏。なお、検地1661年寛文元年)に実施1698年元禄11年)より幕府領以降幕末まで帰属変遷はなし。また、持添新田の原地新田があり、検地延享2年実施1828年文政11年)より大宮宿寄場55村組合所属していた。 幕末時点では足立郡属し明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、幕府領代官大竹左馬太郎支配所)、および金剛院であった1868年慶応4年6月19日 - 幕府領武蔵知県事山田政則(忍藩士)の管轄となる。 1869年明治2年1月13日 - 武蔵知県事宮原忠英管轄区域大宮県設置9月29日 - 県庁浦和置かれ浦和県改称1871年明治4年11月13日 - 埼玉県管轄となる。 1879年明治12年3月17日 - 北足立郡属す1889年明治22年4月1日 - 町村制施行に伴い大成村櫛引村上加村・下加村・西谷村上内野村西内野合併し日進村成立日進村大字下加となる。 1939年昭和14年) - 地内陸軍造兵廠大宮製作所(後の陸上自衛隊大宮駐屯地)が進出1940年夏頃第一工場完成第二工場 - 第五工場逐次建設する1940年昭和15年11月3日 - 大宮町三橋村日進村宮原村大砂土村合併し大宮市発足。同市の大字となる。 1947年昭和22年9月1日 - 日進町一丁目311番地に当たる場所に日進公民館開設される現在の場所(日進町二丁目1195番地2)とは異なる。 1960年昭和25年2月28日 - 現在の日進町一丁目に当たる区域当時櫛引町二丁目404番地の場所)に日進幼稚園開園する1958年昭和33年7月10日 - 町名地番変更により、大字下加一部から日進町一丁目成立また、大字櫛引および大字下加の各一部から櫛引町二丁目成立。これにより大字下加消滅する

※この「下加村」の解説は、「日進町 (さいたま市)」の解説の一部です。
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