下加茂と東横
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:38 UTC 版)
戦後、1946年(昭和21年)には、下加茂の松竹京都撮影所に移籍、照明課長に就任した。戦争末期の1944年8月1日に同撮影所の所長にマキノ正博が就任しており、それとともに、企画部長に牧野満男(のちのマキノ光雄、1909年 - 1957年)、製作部長に辻吉朗(1892年 - 1946年)、脚本部長に比佐芳武(1904年 - 1981年)が就任、また、同時期には宮本信太郎(1910年 - 没年不詳)が編集課長に就任している。前所長の池田義信、前製作部長の大久保忠素といった松竹蒲田撮影所出身者たちはすでに本社に去っており、同年12月31日に公開された『満月城の歌合戦』(主演轟夕起子)では、監督にマキノ正博、撮影に三木滋人(かつての三木稔)、照明に西川、と『浪人街』時代のマキノ・プロダクションの座組みが下加茂で実現した。 翌1947年(昭和22年)には、東横映画が「大映第二撮影所」(かつての新興キネマ京都撮影所、現在の東映京都撮影所)で牧野満男らを中心に製作開始の準備に入り、西川も同社に移籍する。同社の製作第1作『こころ月の如く』は、監督に稲垣浩、撮影杉山公平、照明に西川、主演は上原謙と轟夕起子であり、同年9月16日公開に公開された。1948年(昭和23年)には、同社撮影所照明課長に就任した。マキノ正博が義兄の高村正次とともに宝塚映画製作所(のちの宝塚映像)内に同年5月に設立したCAC(シネマ・アーチスト・コーポレーション)が、設立第1作として長谷川一夫の新演伎座と提携製作した『幽霊暁に死す』(監督マキノ正博、脚本小国英雄)に撮影技師の三木滋人とともに照明技師として参加、同作は同年10月12日に東宝の配給で公開されている。CACは翌1949年5月31日に公開された『今日われ恋愛す』(監督島耕二、主演轟夕起子)を最後に解散するが、西川は全作に関わった。同年には、大映を退社した片岡千恵蔵が牧野満男の協力により設立した連合映画作家協会の第1回作品『白虎』(監督松田定次、撮影伊藤武夫)に参加、同作は同年6月20日に松竹の配給で公開されたが、片岡は、片岡と同行した赤木春恵らとともに東横映画に移籍している。 片岡入社以降の東横映画で、『獄門島』(監督松田定次、1949年11月20日公開)、『獄門島 解明篇』(同、同年12月5日公開)、『にっぽんGメン 第二話 難船崎の血闘』(同、1950年1月3日公開)、『俺は用心棒』(監督稲垣浩、同年2月19日公開)等の片岡の主演作を手がけたが、西川は東横を退社、長谷川一夫の新演伎座が鈴木郁三の東日興業と提携して製作する『傷だらけの男』(監督マキノ正博、撮影谷口政勝)に参加、同作は東宝が配給し、1950年(昭和25年)4月9日に公開された。
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