下北弁形成の歴史的背景とは? わかりやすく解説

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下北弁形成の歴史的背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 14:01 UTC 版)

下北弁」の記事における「下北弁形成の歴史的背景」の解説

藩政時代下北半島南部藩盛岡藩)に属していた。当時は、青森ヒバ海産物積み出し賑わい南部藩重要な湊が開かれていた(下北七湊)。これらの産物北前船によって上方運ばれ上方からは珍しい品々もたらされた。また、とともに京都祇園祭流れをくむ祭り田名部まつり川内八幡宮例大祭箭根森八幡宮例大祭など)、歌舞伎福浦歌舞伎)などの文化もたらされた。その陰には、上方北陸地方商人船乗り漁民往来移住があった。 また当時南部藩津軽藩激しい対立関係にあったにもかかわらず下北の人は海を介して津軽人々交流していた。これは、下北地方代表として大湊ネブタがある)で古くからネブタが行われてきたことからもうかがえる。交流上方津軽のみならず北海道松前藩との間でも盛んであった近年においては、本州最北端である下北半島は海に囲まれた「陸の孤島」「最果てと言われるが、下北の人にとって海は物理的に他の地域とを隔てるものではなく有効に利用できるものであった陸上交通発達した昭和に入ってからも、漁民漁船使って北海道(主に渡島半島)や津軽方面出かけるといったことがあった。 このようにして下北言葉は、下北半島の南から陸上伝って伝播したというより、海を介していろいろな地域言葉影響を受けながら形成されたものと考えられる戊辰戦争後会津藩斗南藩(となみはん)移封に伴い、約1万5千人上の会津の人々下北にやってきた。この影響で、下北弁には南奥羽方言的な特徴垣間見られる。

※この「下北弁形成の歴史的背景」の解説は、「下北弁」の解説の一部です。
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