大震災後の修復とその過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 22:04 UTC 版)
「ニコライ堂」の記事における「大震災後の修復とその過程」の解説
1923年9月1日に発生した関東大震災により煉瓦造の鐘楼が倒壊してドームを破壊し、この時に発生した火災によりイコノスタシスなどを含めた内部や木造部分の多くを焼損、聖堂付属の図書館・神学校なども類焼した。 日本正教会はセルギイ大主教(肩書き当時、のち府主教)の指導下、公会において大聖堂の復興を決定(1923年10月20日)。また1918年に松山に建てられた聖堂を解体して駿河台の被災した大聖堂の近くに移築し、1924年4月にこれを奇蹟者成聖者聖ニコライの名で成聖して聖ニコライ聖堂とし復興工事の間の大聖堂が使えない間に奉神礼に使用した(大聖堂復興後・戦後も小聖堂として暫く使われた)。図書館などの周辺施設の復興にあたっては、内務省から補助がなされた。 セルギイ大主教は日本全国をまわり復興資金のための献金集めに奔走、その際には日本人信徒のみならず白系ロシア人信徒、海外の正教会、さらには信徒ではない者からの献金もあったと伝えられる。 財政上の理由からやや時間がおかれたが1927年から1929年にかけて、岡田信一郎の設計により構造の補強と修復が行われ、鐘楼を低く抑えたことなどにより外観が一部変更された。改修の意匠については賛否があったと伝えられる。鐘はロシア製の大鐘1つとポーランド製の小鐘5つからなっている。1962年6月21日、国の重要文化財に「日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)」の名で指定されたがこれに際して岡田による旧態の改変の程度が検証された。その結果として変更点は ドームをドラム(穹窿胴)付きの高いものとする 四方屋根をマンサード形式で屋根窓のついたものとする 鐘楼を低く抑える 正面両脇に八角柱で補強を施す 窓サッシの更新 補強を兼ねて内部に3個所中二階を設け、中二階のないイコノスタシス上部には補強アーチを加える などであったことが確認された。鐘楼の上部およびドーム、ドラム部分の構造形式は鉄筋コンクリート造および鉄骨造とされた。壁体については装飾や窓廻りを含めて当初の構造意匠がよく保持されており、指定の際には主としてこれが価値を有すると認められた。またこの機会にコンドルがどの程度設計に関与したかが研究されたが、判然としなかった。 改修により設置された中二階バルコニー部分にイコノスタシスを備えた小聖堂が設けられていたが安全上の問題などにより移設され、2009年時点では一階の左右(南北)両翼部分に小聖堂が設けられている(南側が亜使徒聖ニコライ聖堂、北側がラドネジの聖セルギイ聖堂である)。
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