外国人志願兵
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「ナチス・ドイツの軍事」の記事における「外国人志願兵」の解説
親衛隊髑髏師団はすでに1938年にドイツ国外の民族ドイツ人[要リンク修正](de:Volksdeutsche) を獲得しており、開戦以前の段階でヒムラーは非ドイツのゲルマン人によって部隊を編成する構想を持っていた。1940年からは占領地となったノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、フランスからの武装親衛隊隊員徴募が開始され、親衛隊本部ゴットロープ・ベルガーは、その対象を新大陸にまで広げる構想を持っていた。 ヒムラーはドイツ民族性強化国家委員に任じられたことによって、民族ドイツ人に対する指導権を獲得した。このため武装親衛隊の隊員補充先はこの民族ドイツ人が中心となった。しかし徴募の対象は占領地だけでなく、イタリア以外の東欧同盟国にも及び、現地政府との摩擦を生じさせた。 1941年4月には、武装親衛隊に属した志願兵は、親衛隊には所属しないという命令が下されている。6月からは外国人志願兵の募集が公式に開始された。1941年6月、国防軍と親衛隊は外国人志願兵は志願した国別に部隊に編成すること、帰化を求めないこと、チェコ人・亡命ロシア人の参加を認めないことを決定した。また現地の民族組織や政党の組織がそのまま参加することを認めず、ドイツ側によって再編成された。ベルガーはウクライナ人の編入を求めたが、ヒムラーはこの時点では拒否していた。独ソ戦以前には北欧・西欧の義勇兵は2400人、開始以降の1941年年末には1万2000人であった。彼らの多くはナチズム的な思想を抱いていたわけではなく、自国がドイツに敗北したことで、既存の西欧的思想に幻滅していたと言うことが指摘されている。戦争が激化すると新規徴募者がろくな訓練も受けずに補充兵として前線に配属されるケースが増加し、事情を知らされた本国では怒りを募らせた。またドイツ側の外国人差別の言動も彼らの怒りを招いた。 1942年2月17日には18歳になれば両親の同意が無くても志願できるという極秘総統指令が発令され、「志願」は事実上強制的な物となった。さらに親衛隊は16歳以上の青少年が、勤労奉仕を終えた後に志願できるという協定を国家労働奉仕団指導者コンスタンティン・ヒールルと締結した。これによりヒトラー・ユーゲントに属する青少年からの徴募も開始した。1942年に武装親衛隊は2個師団の増設を行っているが、この際に徴募された1925年生まれの新兵は、ほとんど強制的に徴募された人々であった。この強制的な徴募は地元のみならず党内からも強い反発を受けたが、ヒトラーの支持を確信する親衛隊側は受け入れなかった。さらに戦争が激烈化すると親衛隊のイデオロギーである人種原則に拘泥することもできなくなり、1943年に編成された第13SS武装山岳師団はボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒で構成されていた。またソ連領内での非ロシア人志願兵は、陸軍の東方部隊(英語版)に編成された。前述のロシア解放軍と併せ、ドイツのために戦ったロシア諸民族は96万6800人に達する。 また国防軍情報部は、インド攻撃のためにインド人コマンド部隊の編成を行っている。1940年にはインド独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースがインド兵捕虜をインド義勇兵部隊に参加させている。1942年には拡大されて第950連隊(英語版)として陸軍に編入されたが、彼らはインド独立以外で戦うつもりはなく、移動命令に従わないこともあった。950連隊はノルマンディー上陸作戦の後に武器を失ってベルリンに逃げ延びた後に武装親衛隊に移管されたが、すでに彼らに渡す武器はなく、そのまま終戦を迎えた。 戦後、生き残った彼らの多くは本国で厳しい批判と処分にさらされることになる。こうした運命を予期してか、ベルリンで最後までヒトラーを守って戦った部隊は第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント(ノルウェー、デンマーク)、第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント(ノルウェー、デンマーク)、第33SS武装擲弾兵師団 シャルルマーニュ(フランス)、第15SS武装擲弾兵師団 (ラトビア)であった。
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