地元への貢献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:21 UTC 版)
「マシュー・ボールトン」の記事における「地元への貢献」の解説
バーミンガムの市民の暮らしにも深く関わったボールトンは、友人のジョン・アッシュ博士と共に、市内に病院を建てようという計画を温めていた。ヘンデルの大ファンだったことから、バーミンガムで音楽祭を開き建築資金を集めることを思いつくと1768年9月に第1回を開催。その後、この音楽祭は20世紀まで回を重ねていく。1779年に病院が開き、ボールトンが設置を援助した施療院「General Dispensary」では通院患者の治療が始まる。施療院経営に力を注ぎ、会計係を務め「施療院の資金繰りがうまく回らなくなった場合は私財を投じて支援する覚悟である」と書き残した。施療院はまもなく手狭になりテンプル・ロウに新棟を建設すると、1808年、ボールトンが亡くなる寸前に開業した。 ボールトンの支援でニュー・ストリート劇場が開いたのは1774年。後年、彼は劇場があったからこそ富裕層の人々がバーミンガムまで足を伸ばしたのであり、そのおかげで地域経済が潤ったと記している。また大衆演劇ではなくきちんとした台本のある演劇の上演 (王政復古の1660年以降、一般劇場での上演禁止) ができる認可劇場に指定するよう、芸術を監督する省庁 (Royal Patent)[訳語疑問点]に申請、1779年には却下されたが1807年には指定に成功する。芸術面ではさらに地元のオラトリオ合唱協会を財政支援し、ボタン製造業でアマチュア音楽の興行に当たったジョセフ・ムーアと協力してうちわの演奏会シリーズを1799年に催した。またすぐれた音楽を育てたバーミンガムの聖ポール教会 St Paul's Church, Birmingham の長年の会衆である。ヘンデルの生誕百年 (誤) 、没後25年 (正) の1784年にウェストミンスター寺院で上演されたヘンデルのメサイアをボールトンは聴きに行った。「音楽も演技もどちらもすばらしく、筆舌につくしがたい。あの壮麗なハレルヤは魂がこの肉体を離れ、天へと誘われてしまうかと感じる響きであった」 バーミンガムの犯罪率は目を覆いたくなるほどで「真昼というのに売笑婦が堂々と町に出て真夜中までうろつく始末である」という。警察という組織ができる以前の時代であり、犯罪を減らそうと自警団を立ち上げて自ら夜間に町をパトロールし地元の民兵を支援して武器購入の資金を出している。ボールトンは1794年に現在の警察署長に相当するHigh Sheriff of Staffordshireに選出され、 地元スタフォードシャーを取り締まったのである。 ボールトンの関心は地元の生活改革から世界情勢にも関心を寄せ、当初はアメリカのthe rebellious American colonists, ボールトンは独立したアメリカがイギリスの貿易への脅威になるかもしれないと気づくと意見を翻し、1775年にアメリカに対する強硬姿勢を取るよう政府に促す請願を取りまとめる。しかし革命が成立するとかつての植民地との貿易を再開した。フランス革命の精神に同情的で正当性を信じながらも、革命政府の流血騒ぎの行き過ぎに恐怖を表した。war with France が勃発、フランスのいかなる侵略にも抵抗するという義勇軍に武器調達の資金を支援している。
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