ボタン製造業
ボタン製造業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/24 07:22 UTC 版)
「チェシャーの絹関連産業」の記事における「ボタン製造業」の解説
マクルズフィールドでは、モッターズヘッド家が絹のボタンの取引に早い時期から取り組んでおり、一連の手紙を史料として、1649年からかなり大きな量の取引があったことが明らかになっている。絹のボタンの製造はコテージで女子供が行う仕事だった。1698年に「貧しい子供たちか、その他の貧しい者たち」にボタンの作り方を教えるべきだとして、会社組織化された。彼らに原材料をまとめて売り、完成品のボタンを買い上げたマクルズフィールドの商人たちの立場からすると、彼らはこのとき、「問屋制家内工業」における 'outworkers' として雇用されていた可能性がある。ウィルムズロウのサミュエル・フィンニーは、この状況を次のように描写して説明している。「腕のいい女性なら週に4シリングは稼いだし、6歳の子どもでさえも一人前に独りで下準備を手伝っていた。」1749年には、絹ボタンの製造が町の主要産業になった。しかし、1795年までに、牛などの角から作るボタンがもっとありふれたものになったため、それらに取って代わられるようになった。絹を取り扱う技術を持った労働力の集積と、供給と分配の流通網が、後に残された。1765年には15000人もの人々がマクルズフィールドの町と周辺の村々で絹関連の仕事に従事していたと推定されている。 製造された絹のボタンは、チャップマン(chapman)と呼ばれる行商人が取引することもあったが、マンチェスターを経由してブリストルへ送られた。そこからロンドンを経由してオランダやモスクワへ送られた。ブリストルから直接ニューヨークへ送られる場合もあった。ジョン・ブロックハースト(John Brocḱlehurst)という人物は上述のチャップマンの一人であるが、彼は1745年に「putters out(発注元)であるアクトン氏とストリート氏」とパートナーシップ契約を結んだ。チャールズ・ロウ(Charles Roe)という絹ボタン商人は、スピタルフィールズのユグノー教徒から紡績糸を買い、マクルズフィールドの製糸業者や小規模製糸家にそれを供給をしていた。
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