地元への打診
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 14:33 UTC 版)
中部電力は1957年に火力部内に原子力課を設け、社として調査研究を進めてきた。具体的には課の設立以降、日本の重電メーカーの日立製作所、東芝、三菱重工業と共同研究を実施し、技術の吸収に努めた。1966年6月には原子力推進部に格上げし、組織体制を強化した。 1963年11月、中部電力は三重県に紀勢町と南島町にまたがる芦浜地区、海山町大白池地区、長島町城の浜地区の3地点に、原子力発電所の計画を発表した。立地条件としては、3方を山で囲まれ、人口希薄、町有地の買収で済む芦浜地区が有力であったが、三重県内の全漁協が反対に回ったことで、1964年7月の芦浜地区を予定地とする旨の発表の際も賛成の紀勢町、漁民中心で反対の南島町とで対応が分かれ、紀勢町でも町長が原子力発電所計画に絡む使途不明金問題で辞任し、1967年9月、三重県知事田中覚は計画の一時的断念を表明し、中部電力は芦浜以外に立地を求めざるを得なくなった。 一方、三重県で事態が悪化しつつある中、中部電力は1967年1月には静岡県の浜岡町町長や有力者に密かに接触しており、5月31日に正式に町長に計画を説明、世間一般には同年7月5日のサンケイ新聞が1面スクープ記事を報じたことで、明るみに出た。 これに応じて浜岡町も、先進事例であった茨城県東海村に町議を派遣するなど、積極的対応を進めていった。スクープと共に計画のペースは早められ、佐倉地区での概要説明、予定地範囲内の302名の地主への説明と補償交渉が急テンポで進んでいった。補償額は16億円で地価で見ると、関西電力の事例などに比較し、数倍の破格値であった。一方、御前崎や相良周辺の漁民は、温排水による環境破壊のリスクを考慮し、1,100名での反対デモに出るなどした。第五福竜丸が近隣の焼津港を母港としていたことから、放射能への不安も他の地方の漁民より高かったと言う。静岡県内の労働組合も、オルグ活動などで現地入りして支援した。しかし、御前崎の漁協組合長が実際の環境影響の実態調査を提案し、東海大学と共同で実施した結果、適切な補償さえ行われれば、大半の漁民は満足できる内容であると判断し、姿勢は転換していった。関係する漁協は1969年に「最終見解」を受け入れ、建設に同意した。 通商産業省の電源開発調整審議会(電調審)は、1970年3月25日に1号機の建設計画を認可し、中部電力は4月20日にGE社製の沸騰水型軽水炉を採用すると発表した。原子力委員会原子炉安全専門審査会は、6月29日から11月16日までの5ヶ月で安全審査を完了した。なお、この間陸上では社会、共産両党による反対運動も展開され、オルグ、ビラ貼り、電調審への怒鳴り込みなども実施された。 中部電力は、1970年6月に現地調査事務所を設置し、気象、地質、海象、地震観測等を開始した。翌1971年4月には建設所を開設した。 2016年5月10日、立教大学共生社会研究センターは、住民組織「佐倉地区対策協議会(佐対協)」代表を務めた旧浜岡町議の自筆メモなどの関連資料を公開した。これらの資料には、中部電力が佐対協に総額約30億円もの現金を渡していたことが記されている。中部電力は東京新聞の取材に対し「地元振興の手伝いとして、協力金を支払うことがある」と述べた。
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