国立教育研究所時代
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当時の国立教育研究所では文部省の政策に極度に遠慮していて研究の自由がなかったが、1961年にアメリカの高校物理教科書「PSSC物理」が日本に紹介されて文部省がこれに関心を示すと、研究所をクビになる覚悟で科学教育の研究を本格的に始めた。 国研に内地留学した上廻昭と教育の研究を開始し、1963年仮説実験授業を提唱し、1966年に仮説実験授業研究会を設立した。『少年少女科学名著全集』(国土社)を刊行。「いたずら博士」のペンネームで多くの科学啓蒙書を執筆(#著書の節も参照)。また、1968年に書いた『日本理科教育史』は、後に増補版が2010年のパピルス賞を受賞した。1960年代後半には日本科学史学会の会誌『科学史研究』において、ニュートンの質量概念について渡辺正雄と紙上討論を繰り広げた。1973年に数学教育で水道方式を提唱していた遠山啓らと、教育雑誌『ひと』(太郎次郎社)を創刊。 1977年に学習研究社の書籍で板倉の著作に対する著作権侵害問題が発覚し、板倉は弁護士に仙谷由人を依頼。同社雑誌では板倉の『科学的とはどういうことか』や授業書からの盗作が見受けられ、同社書籍には板倉と上廻昭の共著『仮説実験授業入門』からの引用の要件を満たさない記述が見つかった。板倉は弁護士と書籍の発行差し止めの仮処分を裁判所に申請。本件は1977年11月5日の『毎日新聞』朝刊にも掲載され、板倉は1978年出版の自著『模倣と創造』に事の経緯を掲載したが、最終的に板倉側の要望が認められる形で1979年12月5日に和解となった。 1980年頃から『日本歴史入門』を書き、社会の科学の研究も開始した。1983年3月に月刊誌『たのしい授業』を仮説社から創刊し、編集代表を担当、1988年には初めての本格的小説『模倣の時代』を書いて、明治以後の脚気の研究史における、森林太郎(鷗外)を初めとする日本人科学者たちの創造性の問題と悲劇に光を当てた。
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