四川軍での台頭
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翌年3月、劉存厚が川軍将領の支持を失って陝西省寧羌(現在の漢中市寧強県)に逃れたが、孫震はこれに追随せず、四川に留まった。以後の孫震は、川軍の有力指揮官の1人である田頌尭の片腕となっている。その後の四川内戦を経て、1925年(民国14年)12月に田が川西屯殖総司令(本拠:三台)となると、孫震は副司令兼第21師師長として綿陽に駐屯した。翌年12月に田が国民政府に転じて国民革命軍第29軍軍長となると、孫は副軍長兼第1路司令に任ぜられた。孫震は、自軍の訓練に勤しんだだけでなく、教育事業・経済振興・農地開発・文化奨励にも熱心であった。その文武両面での手腕は、川軍軍人の中でも傑出したものであったとされる。 1932年(民国21年)、孫震は田頌尭と対立の末に上海に一時出奔したことがあった。しかし結局、田の要請により復帰し、劉文輝ら対立する川軍指揮官との戦いを続けた。長征中の紅軍第4方面軍が四川を通過した際には、田と孫震はこれを迎撃したものの、大敗に終わる。次いで、川軍のリーダーと目される劉湘の下で、田・孫率いる第29軍は他軍とともに紅軍を包囲攻撃した。しかし1935年(民国24年)3月、紅軍は第29軍の防衛線を突破してしまう。これにより、田は蒋介石から責任を問われて第29軍軍長を罷免され、孫震が後任軍長となった。さらに5月には、孫震は第41軍軍長とされている。
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四川軍での台頭
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絹織物商の家庭に生まれる。1903年(光緒29年)7月、四川武備学堂速成班で1年学習した。その後、日本に留学し、東斌学堂と成城学校で学んでいる。1906年(光緒32年)に帰国すると、四川の新軍で軍務に就きチベットに赴任した。1908年(光緒34年)秋に四川陸軍軍官速成学校が創設されると、王陵基はラサから成都に呼び戻され、同校翻訳官に任ぜられる。当時、四川省では鉄道保護運動の発生等により革命派の活動が盛んであったが、王は革命派からの勧誘があっても拒絶を貫いた。 中華民国成立後も、王陵基は引き続き四川軍で団長として起用された。1913年(民国2年)、第二革命(二次革命)が勃発すると、四川都督胡景伊の命により王は重慶で蜂起した革命派の熊克武を撃破した。1915年(民国4年)12月、護国戦争が勃発すると、四川督軍陳宧の下で四川軍第1師第4団団長に任命されて護国軍と戦い、まもなく第3師第5旅旅長に昇進している。翌1916年(民国5年)5月に陳が護国軍側へ寝返り独立を宣言すると、袁世凱支持派の四川軍軍人周駿を支持して陳を攻撃した。ところが6月に袁が死去してしまい、後ろ盾を失った周・王はいずれも下野を余儀なくされる。その後、王は山東省で煙台鎮守使に任ぜられる。さらに北京政府中央で要職を得ようと活動したものの、成果は無かった。 1921年(民国10年)2月、王陵基は重慶に拠っていた四川軍第2軍軍長楊森を頼り、同軍参謀長に任ぜられた。その後、楊森を補佐して他の四川軍指揮官と戦うも、翌年に楊が敗北して湖北省へ一時脱出したため、王はその下を離れて四川に留まった。1923年(民国12年)7月、劉湘が四川善後督弁に任ぜられると、王はその配下に転じる。翌年、第28混成旅旅長に昇進し、1925年(民国14年)には四川軍第3師師長兼江巴衛戍司令となった。
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