四州を平定
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太元9年(384年)2月、豊城公桓沖が没すると、朝廷は謝玄を荊江二州刺史に任じようと考えたが、謝安は自らの一族ばかりが高位に昇ることで桓氏から恨みを買うのを恐れ、梁郡太守桓石民を荊州刺史に、河東郡太守桓石虔を豫州刺史に、豫州刺史桓伊を江州刺史に任じた。 8月、謝安は前秦の混乱を中原開拓の絶好の好機であるとして上表し、謝玄は前鋒都督となって冠軍将軍桓石虔を率いて前秦を征伐し、渦潁の地より旧都洛陽の奪還を委ねられる事となった。 謝玄がまず下邳へ侵攻すると、前秦の徐州刺史趙遷は彭城を放棄して逃走した。謝玄軍の前鋒である張願はこれを山まで追撃すると、幾度もこれを破った。謝玄は進んで彭城を占拠した。 9月、謝玄は彭城内史劉牢之を派遣して前秦の兗州刺史張崇が守る鄄城を攻めた。張崇は鄄城を放棄して後燕に亡命すると、劉牢之は将軍劉襲に張崇を追撃させ、河南で追いついて東平郡太守楊光を討ち取った。張崇自身はかろうじて逃げ切りを果たした。こうして鄄城を占拠すると、河南の城砦はみなこれに帰属した。 兗州が平定されると、謝玄はこの地の水路が整備されておらず物資の輸送に難があった事から、督護聞人奭の進言を用い、呂梁水を塞き止め、柵を設けて7つの堰を立て、川を分岐させて陸地を2つに分けた。これにより運漕に大きな利益を上げ、公私問わずこの恩恵に預かったという。その後、謝玄は水路を利用して軍を進め、青州征伐に向かったので、この水路は『青州派(派とは川の分岐点)』と呼ばれるようになったという。 10月、淮陵郡太守高素に3千人を与えて広固へ向かわせると、軍が琅邪に至ったところで前秦の青州刺史苻朗は降伏した。さらに冀州へ進むと、龍驤将軍劉牢之・済北郡太守丁匡を派遣して碻磝を守らせ、済陽郡太守郭満に滑台を守らせ、奮武将軍顔肱には黄河を渡って陣営を立てさせた。 鄴を統治している前秦の長楽公苻丕は、将軍桑拠を黎陽に派遣してこれを阻んだが、謝玄は劉襲に命じて夜襲を掛けさせ、桑拠を逃走させた。謝玄は晋陵郡太守滕恬之に河を渡らせて黎陽へ派遣し、これを守らせた。これにより三魏の地はいずれも謝玄に降伏した。 苻丕はこれに衝撃を受け、謝玄の下へ使者を派遣し、鄴を明け渡す事を条件に援軍を要請した(苻丕は後燕より攻撃を受けていた)。だが、使者に選ばれていた苻就・焦逵・姜譲は、苻丕の妃の兄である楊膺と共に謀議すると、東晋軍へ降伏する代わりに救援を要請するというふうに書の内容を改竄してから謝玄へ送り届けた。また、楊膺は済南将軍毛蜀・毛鮮に命じ、自らの妻を東晋へ人質として差し出させた。 謝玄は兗州・青州・司州・豫州を平定した功績により、都督徐兗青司冀幽并七州諸軍事に任じられ、康楽県公に封じられた。謝玄は上疏して、河北を平定する事をもって幽冀については総督すべきであるが、司州にはいては遠く離れている事から不適当であり、豫州を統べるべきだと訴えた。また、謝玄は上疏して、以前封じられていた東興侯を兄の謝攸の子である謝珫に下賜するよう請うと、詔により聞き入れられ、それ以上である豫寧伯に封じられた。 12月、使者の焦逵が謝玄と見えると、謝玄は苻丕の子を人質として出すよう要求し、それから救援を出すと述べた。だが、焦逵は苻丕の誠意を固く説き、並びに楊膺の意思も伝えたので、謝玄は援軍要請に応じると、劉牢之・滕恬之らに2万の兵を与えて鄴を救援させた。また、苻丕が食糧不足に喘いでいる事を告げられると、謝玄は水陸から米2千斛を運送させた。 その後、寧遠将軍昋演を魏郡に派遣して申凱を討伐させ、これを破った。
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