四州を平定とは? わかりやすく解説

四州を平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)

謝玄」の記事における「四州を平定」の解説

太元9年384年2月豊城桓沖没すると、朝廷謝玄荊江二州刺史任じようと考えたが、謝安は自らの一族ばかりが高位昇ることで桓氏から恨みを買うのを恐れ梁郡太守桓石民荊州刺史に、河東郡太守桓石虔豫州刺史に、豫州刺史桓伊江州刺史任じた8月謝安前秦混乱中原開拓絶好好機であるとして上表し、謝玄前鋒都督となって冠軍将軍桓石虔率いて前秦征伐し、渦潁の地より旧都洛陽奪還委ねられる事となった。 謝玄がまず下邳侵攻すると、前秦徐州刺史趙遷は彭城放棄して逃走した謝玄軍の前鋒である張願はこれを山まで追撃すると、幾度もこれを破った謝玄進んで彭城占拠した9月謝玄彭城内史劉牢之派遣して前秦兗州刺史張崇が守る鄄城攻めた。張崇は鄄城放棄して後燕亡命すると、劉牢之将軍劉襲に張崇を追撃させ、河南追いついて東平郡太守楊光討ち取った。張崇自身はかろうじて逃げ切り果たした。こうして鄄城占拠すると、河南城砦はみなこれに帰属した。 兗州平定されると、謝玄はこの地の水路整備されておらず物資輸送に難があった事から、督護聞人奭の進言用い呂梁塞き止め、柵を設けて7つの堰を立て、川を分岐させて陸地2つ分けた。これにより運漕大きな利益上げ公私問わずこの恩恵預かったという。その後謝玄水路利用して軍を進め青州征伐向かったので、この水路は『青州派(派とは川の分岐点)』と呼ばれるようになったという。 10月淮陵太守高素に3千人与えて広固向かわせると、軍が琅邪至ったところで前秦青州刺史苻朗降伏した。さらに冀州へ進むと、龍驤将軍劉牢之済北郡太守丁匡を派遣して碻磝を守らせ、済陽郡太守郭満に滑台を守らせ、奮武将軍顔肱には黄河渡って陣営立てさせた。 鄴を統治している前秦長楽苻丕は、将軍拠を黎陽派遣してこれを阻んだが、謝玄は劉襲に命じて夜襲掛けさせ、拠を逃走させた。謝玄晋陵郡太守滕恬之に河を渡らせて黎陽派遣し、これを守らせた。これにより三魏の地はいずれ謝玄降伏した苻丕はこれに衝撃を受け、謝玄の下へ使者派遣し、鄴を明け渡す事を条件援軍要請した苻丕後燕より攻撃受けていた)。だが、使者選ばれていた苻就・焦逵・姜譲は、苻丕の妃の兄である楊膺と共に謀議すると、東晋軍へ降伏する代わりに救援要請するというふうに書の内容改竄してから謝玄送り届けたまた、楊膺は済南将軍毛蜀・毛鮮に命じ、自らの妻を東晋人質として差し出させた。 謝玄兗州青州司州豫州平定し功績により、都督徐兗青司冀幽并七州諸軍事に任じられ康楽県公に封じられた。謝玄上疏して、河北平定するをもって幽冀については総督すべきであるが、司州にはいては遠く離れている事から不適当であり、豫州統べるべきだと訴えたまた、謝玄上疏して、以前封じられていた東興侯を兄の謝攸の子である謝珫に下賜するよう請うと、詔により聞き入れられそれ以上である豫寧伯に封じられた。 12月使者の焦逵が謝玄と見えると、謝玄苻丕の子人質として出すよう要求し、それから救援を出すと述べた。だが、焦逵は苻丕誠意固く説き並びに楊膺の意思伝えたので、謝玄援軍要請応じると、劉牢之・滕恬之らに2の兵を与えて鄴を救援させた。また、苻丕食糧不足に喘いでいる事を告げられると、謝玄水陸から米2千斛を運送させた。 その後寧遠将軍昋演を魏郡派遣して申凱を討伐させ、これを破った

※この「四州を平定」の解説は、「謝玄」の解説の一部です。
「四州を平定」を含む「謝玄」の記事については、「謝玄」の概要を参照ください。

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