周辺開発と大湯間歇泉の減衰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:41 UTC 版)
「大湯間歇泉」の記事における「周辺開発と大湯間歇泉の減衰」の解説
他方で、明治維新によって江戸時代までの湯戸による支配体制が崩れると、内湯を禁じられてきた熱海七湯の大湯以外の源泉周辺で、各旅館による源泉開発(掘削)が盛んに行われるようになり、江戸時代まで7つ(熱海七湯)だった源泉が、明治維新から10数年後の1880年代(明治10年代)中頃には26にまで増えた。 こうした「乱開発」状況の中、静岡県は1884年(明治17年)に熱海温泉と修善寺温泉に対して、日本初の源泉取締規則を制定し、温泉場・源泉の管理を行う組合・取締所を作らせた。 しかし、1896年(明治29年)の豆相人車鉄道(後・熱海鉄道)開通以降の旅行客増大や、更に1904年(明治37年)からは日露戦争での傷病兵療養地域として、熱海を含む湯河原〜伊豆の温泉場が指定されて温泉客が急増したこともあり、「乱開発」の流れは止められず、1905年(明治38年)3月から大湯間歇泉の噴出回数と湧出量が顕著に減るようになり、紛争に発展した。 世界三大間歇泉とまで謳われ、江戸時代には一日に8回噴出していた大湯間歇泉は、1884年(明治17年)には一日6回にまで数を減らしていたが、1905年(明治38年)に本多光太郎・寺田寅彦が調査した際には、近隣の源泉掘削と連動して、5月1日には一日4回8分、5月20日には4回4分、5月26日には3回6分と減衰を見せ、1911年(明治44年)11月には2回3分まで減衰した。湧出量も、1905年(明治38年)に一日1200石だったのが、1911年(明治44年)には600石に半減した。 こうした事態に対し、県は警部長を派遣して原因となった新規源泉を埋立させたり、源泉開発を警察の認可制にし、違反罰則も強化した新たな取締規則を制定したり、それまで林業・漁業の管理のみ行っていた財産区「熱海区」に源泉の管理・調整も行わせる「区有温泉」制度導入などの対策を行い、大湯の相対的な地位は低下し続けていく。 1921年(大正10年)〜1923年(大正12年)に、再び大湯間歇泉の減衰が生じて紛争となり、県は1922年(大正11年)に行政権限を強めた取締規則改正を行い介入した。1923年(大正12年)5月に他の源泉の湧出制限を行い、熱海温泉全体で7000石の内3000石減らすほどの制限を行っても、大湯は一日1回の噴出と100石の湧出量を回復するのがせいぜいだった。 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大地震(関東大震災)によって、熱海町は津波被害を中心に壊滅的な被害を受けたが、逆に大湯をはじめとする源泉の湧出量は湯を利用せずに海に流すほど一時的に急増し、更に半年も過ぎると再び湧出量が減少し始めるという不安定な状況を受け、1924年(大正13年)から町長主導で源泉の(「区有」から)「町有」への移行を模索する動きが始まった。 1925年(大正14年)3月25日に国鉄熱海線(小田原〜熱海)が熱海まで開通したが、同時期に大湯間歇泉がついに枯渇する事態が生じ、県が5月に復活工事を試みるも失敗し、遺跡として保存することが決定された。こうした未曾有の事態を前に、温泉関係者は「熱海温泉組合」を組織することを6月に決定し、12月に発足した。 震災の復興が進まず、財政が悪化し、湧出量も減少するなど、悪環境の中で調整が難航していたが、丹那トンネル開通を数年後に控えた1931年(昭和6年)1月、町会で「町有温泉」の整備が決定され、主要な源泉の取得と新規源泉開発によって、「熱海市」が発足する直前の1936年(昭和11年)7月1日にそれを確立し、翌年1937年(昭和12年)の市制施行に伴い「市有温泉(市営温泉)」へと移行した。
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