名誉等を称える石碑
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瀧川辨三君彰功碑 - 画像 マッチ王とも呼ばれるほど日本のマッチ業界に貢献した瀧川辨三の彰功碑。彼の死の翌年に桂弥一らにより笑山寺境内に設置された。題字は渋沢栄一、碑文は桂弥一によるものである。 長府藩報国隊顕彰之碑 - 画像 報国隊の名誉を称える石碑。豊功神社境内にある。報国隊の詳細は近世節の報国隊結成を参照。 福田先生ト家塾櫻柳亭ノ記の碑 - 画像 長府図書館横にある石碑。桜柳亭とその創設者、福田扇馬(1846-1892)について称えたもので、昭和3年(1928年)5月に当塾門下生の横畠武二により建てられた。桜柳亭については教育節江戸期の教育節を参照。 原田政佳翁彰功碑 - 画像 長府村長、長府町長に就任し長府を発展させた原田政佳(1858-1945)を称える石碑。長府図書館横にあり、原田政佳の顕彰会により建てられた。この顕彰会は会長が元長府博物館館長の椿惣一、副会長が下村治一と原田一二で他の会員に内田重成や元市長福田泰三もいた。 熊野則之君記念之碑 - 画像 集童場長、報国隊参謀になり、明治維新に貢献した熊野則之(1846-1868)を称える石碑。長府図書館横にあり、その長さは7mを超える。題字は山縣有朋、碑文は金子豪介(集童場の門下生)により書かれたものである。 杉聴雨先生頌徳碑 - 画像 覚苑寺中央にある狩野芳崖先生像後ろにある杉孫七郎の頌徳碑。大正4年(1915年)4月に建てられたもので、撰文は覚苑寺住職の進藤端堂で野村素介により書かれたものである。杉孫七郎(=杉聴雨)と野村素介(=野村素軒)はともに書家であった。 野村素軒先生頌徳碑 覚苑寺梅林にある野村素介の頌徳碑。大正4年(1915年)4月に建てられたもので、撰文も碑文を書いたのも進藤端堂。 田上菊舎文塚・頌徳碑 - 画像 徳応寺にある石碑。徳応寺の門に入る前にも「女流歌人一字庵菊舎の墓と句碑」と書かれた石碑(画像)がある。 田上菊舎文塚はその名の通り田上菊舎の文塚で菊舎の「雲となる花の父母なり春の雨」という俳句が書かれている。裏に書かれた詩文は清の費晴湖によるもので、菊舎の父母からの手紙が埋められている。 田上菊舎(1753.10/14~1826.8/23)は安永9年(1780年)から尼になり、各地を旅し、翌年には俳号「一字庵」を授かった。墓は本覚寺にもあるが、徳応寺にもあり、徳応寺の方の墓には頌徳碑が設置されており、本覚寺の方の墓には「無量寿の 宝の山や 錦時」と書かれた句碑がある。 航空界洋装界功労者佐村福槌夫妻之碑 - 画像 題字のとおり、航空界、洋装界に貢献した佐村福槌及び佐村よね(=南地よね)の名誉を称える石碑。功山寺山門前右側にあり、昭和28年(1953年)4月12日に建てられたもので、撰文は徳富蘇峰。 佐村福槌が飛行士としての試験に合格したのは明治41年(1908年)であり、日本で初めて飛行に成功した徳川好敏よりも2年早く海外で成功し、日本人飛行士の教育を行った。佐村よねは東洋人初の女性飛行士であり、かつロサンゼルスで洋裁について勉強していたため大正12年(1923年)6月1日には阿弥陀寺町に関門高等洋裁学校を開校した。 東皐三輪先生出碑 - 画像 日頼寺の墓地にある石碑。敬業館の小田亨叔(こうしゅく)がこの石碑の撰文をした。三輪とうこう(東皐)(1725-1795)は下関で私塾を開いた人物で、父は筑前国の医者平井玄琳だが出生前に亡くなっており、養父に下関の富豪、三輪覧克がいる。 手づくり郷土賞の碑 - 画像 長府を流れる壇具川が建設省(現在は国土交通省に合併)の手づくり郷土賞を昭和63年(1988年)10月25日に受賞した記念に建てられた。市は受賞後30万円で壇具川周辺の整備を行った。
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