史上最大のプロペラ旅客機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:30 UTC 版)
「Tu-114 (航空機)」の記事における「史上最大のプロペラ旅客機」の解説
この時代の西側で就航していた民間ジェット輸送機と比較し、Tu-114型はマクダネル・ダグラスDC-8-61型が登場するまで最も多く乗客を運ぶことができる機体であった。また、最大航続距離の面ではDC-8-62型まで随一の性能を誇った。国際線ではモスクワ - ハバナ間(カナダ国内かムルマンスク空港で給油経由)などのいままでのソ連機では到底就航不可能であった長距離路線に使用された。季節や気象条件しだいでは載貨重量を制限し燃料タンク増設した特別装備ならば、モスクワ(シェレメーチエヴォ国際空港) - ハバナ間を無着陸で直行可能だったが実用的ではなく、定期便開設あたっては前項で説明のTu-114D型で運用され、1964年東京オリンピック時にもハバロフスク - 東京間をピストン運航した。 しかしTu-114型は当時の飛行機としては大きすぎたため、民間空港では誘導路が通れなかったり、滑走路の端をうまく回り切れないことがあったりと制約があった。旅客搭乗部となる胴体に響く騒音や振動を軽減するため、Tu-95の中翼配置は低翼配置に設計変更されたが、エンジンの騒音そのものはジェット機に匹敵するほど大きかったうえ、二重反転プロペラのために独特な振動もあった。 また長大なプロペラブレードや構造の複雑な二重反転軸のため整備性の面でも難があった。冷戦下、ソ連の外交事情によって開発された長距離航路専用の旅客機や、共産圏国家向けに安価に販売された互換性のあるエンジンを搭載したアントノフなどの多目的機種とは異なり、就航航路が限定された機体である事からコストが嵩むため、アエロフロート以外の航空会社で運用されることはなかった(なお日本航空とのコードシェア運航が同機により行われた)。 華々しい活躍とその高性能とは裏腹に、1970年に深刻化する劣化問題以前から、構造強度不足由来から急速に進んだ金属疲労に機体胴体外板は就航中に細かい補修が繰り返されていた。フルシチョフ首相は1959年9月の訪米に際し、Tu-114型の機体振動の不安感からアンドレイ・ツポレフの子息を訪問団随行の運行技術スタッフに加えることで機体の安全性を保障させたという。 重大事故は1件記録されている。1966年2月17日夜、シェレメーチエヴォ国際空港でコンゴ共和国ブラザヴィル行きアエロフロートSU065便、機体登録記号СССР-76491は離陸体勢に入った直後滑走路を逸脱し雪原で大破炎上、ソ連の通商貿易交渉団を含む乗客35名乗員13名中21人が死亡した。悪天候で除排雪が不十分な滑走路の状況が原因とされた。
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