叙爵基準による最初の叙爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 10:18 UTC 版)
公爵公家からは五摂家、武家からは徳川家宗家が公爵相当となった。 「国家に偉功ある者」として公家からは三条家(清華家・三条実美の功)、岩倉家(羽林家・岩倉具視の功)、武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、玉里島津家(薩摩国父島津久光の功)、毛利家(長州藩主毛利敬親の功)が公爵に叙せられた。 侯爵公家からは清華家、武家からは徳川御三家と現米15万石以上の大名家が侯爵相当となった。 琉球国王だった尚氏も侯爵となっている。 「国家に勲功ある者」として、木戸家(木戸孝允の功)、大久保家(大久保利通の功)が侯爵となった。また公家の中山家(羽林家)は「勲功により特に」侯爵が授けられたが、中山忠能が明治天皇の外祖父だったことが考慮されたものとみられる。 伯爵公家からは大臣家、大納言の宣任の例が多い堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当となった。 公家の東久世家は参議を極官とする羽林家で大納言宣任の例も皆無だったが、維新における東久世通禧の功が特に考慮されて伯爵となった。また武家の対馬藩は数千石余で、肥前国内の飛地1万石を併せても表高の2万石を下回っていたが、藩主宗家は朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった。平戸藩主松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であることから明治天皇の外戚に当たることが考慮されたものとみられる。 西本願寺・東本願寺の世襲門跡家だった両大谷家も伯爵となった。 「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道・山縣有朋・大山巌などの維新の元勲も伯爵に叙された。 子爵公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家、武家からは維新前に諸侯だった大名家が子爵相当となった。 分家した家は、本家が高い爵位を持っている場合は特例として子爵に叙せられた。近衛秀麿家(公爵近衛家の分家)、徳川武定家(侯爵水戸徳川家の分家)、松平慶民家(侯爵福井松平家の分家)の3家。 「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者のうち伯爵相当とみなされなかった者の家が子爵に叙せられた。 男爵「一新後新たに家を興したる者」が多く含まれる。 明治維新後に堂上公家に組み入れられた奈良華族は男爵相当となった。 明治維新後に石直しなどの申告により1万石を越えると申請し、諸侯大名に取り立てられた元・交代寄合(旗本)のいわば新規の諸大名は、元来大名であった者が与えられた子爵ではなく、男爵とされた。同じく独立した大名とされた旧徳川御三家の御附家老諸家なども、諸侯ではあるが一段落ちる男爵とされた。5万石という並の大名家を上回る知行を有していた加賀藩家老家などの、大藩の家老家からものち男爵に叙せられる家が出た。 地下家で最も家格が高い局務家の押小路家と官務家の壬生家の2家は、堂上家に準じて男爵を与えられた。出納家の平田家以下他の地下家はすべて士族として扱われた。 大社の由緒の長い世襲神職家14家、浄土真宗系の世襲門跡家4家も男爵となった。 琉球王家の尚氏の分家だった伊江家と今帰仁家の2家も男爵となった。 「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者のうち伯爵・子爵相当とみなされなかった者の家が男爵に叙せられた。 「先祖が南朝の功臣である」として男爵となった家もある。柳川藩士であった名和氏は名和神社の宮司となり、男爵位を授けられた。内大臣・久我建通の四男の通城は南朝忠臣であった北畠家を家名復興して相続し男爵となった。肥後国の米良氏は無高だが交代寄合という特殊な家であったが、南朝の忠臣であった菊池氏の子孫であるとして菊池に改姓、菊池武臣が男爵となった。
※この「叙爵基準による最初の叙爵」の解説は、「華族」の解説の一部です。
「叙爵基準による最初の叙爵」を含む「華族」の記事については、「華族」の概要を参照ください。
- 叙爵基準による最初の叙爵のページへのリンク