南アジア、東南アジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 10:19 UTC 版)
古代から続いていた西アジア型の打刻硬貨の発行は、7世紀頃に減少する。金銀は硬貨よりも装飾品の素材となり、硬貨の含有率も低下した。モンゴル帝国が中国からペルシアにかけて統治するようになると海上貿易が増加した。紅海やペルシア湾からの馬が重要な輸出品となり、インドは西アジアから馬を輸入して中国からの銀で支払った。イスラーム世界は10世紀から銀不足が続いていたが、東から西へと銀が運ばれるにつれて13世紀に銀不足は解消された。イスラーム世界やヨーロッパでは、東方からの銀で14世紀から銀貨の造幣が増加したが、元の貿易ルートが衰えると再び銀不足に陥った。スール朝のシェール・シャーの時代に銀含有率の高いルーパヤと金貨、銅貨が発行され、ムガル帝国のアクバルの時代にルピー銀貨の品質が確立された。この制度は金貨やダーム(英語版)銅貨にも採用が進み、金貨、銀貨、銅貨が採用された。金貨は贈答用や貯蔵用、銀貨は納税用、銅貨は小額の取引用であり、農民が納税するために商人や両替商が活動した。 モルディブ諸島や雲南で産するタカラガイは、地元で小額用の貝貨として使われたほかに、10世紀頃からインド洋から東アフリカの海岸に運ばれて貨幣となった。 カンボジアのクメール王朝では、塩が海水由来と岩塩に分けられ、特産の塩が貨幣としても流通した。市場での支払いには米、穀物、布などを使い、高額の取引には金銀を使った。その他にも貨幣となる財貨や作物は多種多様だった。
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南アジア、東南アジア
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ムガル帝国ではアクバルの時代にルピー銀貨が整えられ、アウラングゼーブ帝の時代にはアシュラフィー(英語版)金貨とダーム銅貨の質も確立された。帝国各地に造幣所が建設され、地金を持参した者には5.6パーセントの手数料で造幣をして多数の硬貨が発行された。インドでは銀は産出しないが17世紀に銀貨が急増しており、国外からの銀の流入が影響を与えた。1591年以降にマネーサプライが急増して1639年まで続き、1640年から減少して1685年から再度増加した。 ムガル帝国では、両替商のサッラーフが為替手形や約束手形を発行した。手形は、豪商が穀物買付など多額の取引を行う際に使い、ペルシア語のバラートまたはヒンディー語でフンディーと呼ばれた。穀物商自身が両替商を兼ねることも多かった。 東南アジアでは9世紀から始まっていた宋銭の流通は、コーチシナ、マラッカ、ジャワなどで17世紀まで続いた。1570年代から貿易によって東南アジアに銀が大量に流入し、各地では香辛料などの現地産品を買い付けるために鉛銭などの小額面の貨幣も増加した。ベトナムでは16世紀に莫朝のもとで鉛貨や鉄貨が流通し、のちの黎朝はそれらを廃止しようとした。黎朝は景興通宝をはじめとする景興號錢や景興銭も発行した。スマトラの王朝であるアチェーとセレベスのマカッサルは金貨を発行して領内で流通させようとした。しかし商人は王朝の金貨よりもスペインのリアル銀貨を使い、金貨は流通しなかった。
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