南アジアにおけるヒラーファト運動の展開
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「ヒラーファト運動」の記事における「南アジアにおけるヒラーファト運動の展開」の解説
カリフ制擁護の政治活動と大衆による抗議活動はイスラーム世界全体で行われたが、最も活発だったのが英領インドである。オックスフォード大学で教育を受けた著名なジャーナリスト、ムハンマド・アリー・ジョーハルは反英運動とカリフ制擁護を呼びかけたため、4年間刑務所に投獄された。オスマン帝国の敗北が濃厚になると、世界各地のウラマー(宗教指導者たち)はカリフ制存続を危惧した。インド・ムスリムの中には、(イギリスの)徴兵に応じてトルコのムスリムと戦うことを嫌うものもいた。ヒラーファト運動の指導者や支持者にとって、カリフ制は宗教的な運動ではなく、トルコのムスリムに対して連帯を示す運動であった。ムハンマド・アリーと彼の兄シャウカット・アリーはピール・グラーム・ムジャッディディー・スィルヒンディー(Pir Ghulam Mujaddidi Sirhandi)、シャウカット・アリー・スィッディーキー(Shaukat Ali Siddiqui)、ムクタール・アフマド・アンサーリー(Mukhtar Ahmed Ansari)、ジャーン・ムハンマド・ジョーネージョー(Jan Muhammad Junejo)、ハスラット・モーハー二―(Hasrat Mohani)、サイイド・アタウッラー・シャー・ブハーリー(Syed Ata Ullah Shah Bukhari)、ハキーム・アジュマド・ハーン、アブル・カラーム・アーザードといった指導者たちとともに、全インド・ヒラーファト委員会を結成した。委員会の本部はラクナウーに置かれた。彼らの狙いは南アジアのムスリムたちを政治的に結束させ、その影響力でカリフ制を守ることにあった。彼らは1920年にヒラーファト宣言(Khilafat Manifesto)を発表した。そこではイギリスからカリフ制を護ること、そのために全インドのイスラーム教徒が結束することが謳われていた。ヒラーファト委員会ベンガル支部にはムハンマド・アクラーム・ハーン(Mohammad Akram Khan)、マニールッザマーン・イスラーマーバーディー(Maniruzzaman Islamabadi)、ムジブル・ラフマーン・ハーン(Mujibur Rahman Khan)、チッタランジャン・ダース(Chittaranjan Das)がいた。1920年、ヒラーファト運動の指導者たちと当時インド最大の政党で民族主義運動を展開するインド国民会議派との間で同盟が結ばれた。国民会議派の指導者ガンディーと彼らはカリフ制擁護とスワラージの大義のために共闘することを約束。イギリス植民地政府への圧力を高めるために、ヒラーファト運動は非協力運動で重要な役割を担った。一部の人々は、北西辺境州からアマーヌッラー・ハーン統治下のアフガニスタンへ移住を行うヒジュラ(聖遷)を敢行した。この同盟を契機に、アンサーリーやアーザード、ハキーム・アジュマド・ハーンらがガンディーと個人的な親交を深めた。ヒラーファット運動の指導者たちは1920年にジャーミア・ミリーア・イスラーミーヤ(Jamia Millia Islamia)を設立し、イスラム教徒のための独立した教育と社会の再活性化を促進した。非協力運動は立法議会、植民地政府運営の教育機関、外国製品のボイコットから始まり、インド全土で大規模な抗議行動、ストライキ、不服従運動が展開された[要出典]。ムスリムとヒンドゥー教徒が協力して、平和的に運動が展開されていたものの、ガンディーやアリー兄弟(ムハンマド・アリーとシャウカット・アリー)らは植民地政府によって逮捕された。その後、マンズール・アフマドやルトゥフッラー・ハーン・ダンカウリー(Lutfullah Khan Dankauri)によってパンジャーブ・ヒラーファット代表団が結成され、インド全土、特にラーホールをはじめとするパンジャーブで主導的な役割を担った。
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