千島アイヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:40 UTC 版)
千島列島には先史時代から居住者がいたが、文字記録が残されるようになるのはロシアが東シベリアまで勢力を拡大した18世紀からである。千島アイヌは千島列島を南北に移動して交易していたが、この頃、日本の北進と東シベリアを版図に入れたロシアの南進によって、彼らは生産・交易活動を両国に依存することが多くなっていった。松前藩は家臣の知行地として1754年にウルップ(得撫島)までを含む国後場所を開いていたが、その後のロシア人の侵入もあり、江戸幕府は、1803年、エトロフ-ウルップ(得撫島)間のアイヌの移動を禁止した。これによりウルップ島以北のアイヌは日本との交易が困難になり、ロシアの影響を強く受けるようになった。1854年の日露和親条約によって千島列島は日露両国が南北を分断して統治することになったが、1875年には樺太・千島交換条約に基づき千島列島が全て日本の領土になった。その際居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るか選択させられ、大部分は日本国籍を得た。 1884年には若干の千島アイヌが日本領北端のシュムシュ(占守島)に残っており、北の国境に民間人を置いておくよりも南の地で撫育した方が良いと考えた日本政府は、97名を半ば強制的に色丹島へ移住させ、牧畜・農業に従事させた。しかし先祖代々続いた漁撈を離れ、新しい土地で暮らすことに馴染めず、健康を害するものも現れた。望郷の念を募らせる千島アイヌに対し、日本政府は1898年以降、軍艦に彼らを乗せ北千島に向かわせ、臨時に従来の漁撈に従事させる等の措置をとった。1923年には人口は半減しており、更に第二次世界大戦(太平洋戦争)における日本の敗戦に乗じたソ連による千島・北方領土の占領に伴い、千島アイヌを含んだ日本側居住者は全て強制的に本土に移住させられ、各地に離散した。 1962年に当時北海道大学大学院生だった村崎恭子(後に同大教授)が7人の千島アイヌ(及び和人とのハーフ)の生存を確認し、このうち4人から聞き取り調査を行った。しかし、4人はいずれも日本に同化しており、一部は非協力的だった。1970年代に最後の一人が死去した時点で千島アイヌの文化を継承する者は消滅したと思われている。
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