勇営の台頭
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太平天国の乱の初期、清軍は立て続けに大敗を喫し、1853年には華南の中心都市南京を奪われた。反乱軍は南京で満州人の守備隊とその家族らを虐殺した上で、そこを太平天国の首都とした。その後まもなく、太平天国の外征軍は北に進軍し天津郊外まで達した。天津は帝都北京から近く、帝国の心臓部と考えられている地域である。追い詰められた清朝は漢人の官僚曽国藩に命じて、反乱鎮圧にあたらせるために、地方(団勇)と郷村(郷勇)の民兵を組織させ、団練と呼ばれる独立軍とした。曽国藩の戦略は、太平天国軍からの直接の脅威を受けている省から、地方の郷紳に依頼して新しい軍事組織を立ち上げることであった。この新しい軍隊は、それが徴募された湖南地方の通称にちなんで湘軍として知られるようになる。湘軍は地方民兵と独立軍の混成部隊であった。湘軍は専門的な訓練を与えられたが、地方財源と指揮官(多くは漢人の郷紳階層)たちの拠出金から給与が支払われていた。湘軍と、それを継承して曽国藩の弟子の李鴻章が創設した淮軍をまとめて勇営と呼んだ。 湘軍を創設して指揮を執るまで、曽国藩に軍事経験は全くなかった。古典的な教養を学んできた文官である彼が描いた湘軍の青写真は、歴史から学んだものであった。明代の将軍戚継光は、16世紀頃に、明の正規軍が弱いため、彼独自の「私兵」を設けて倭寇を撃退することを決断した。戚継光の教義は、軍人は直属の上官に対して忠誠を尽くすとともに、自分たちが育った地域にも忠誠を尽くすという宋明理学の考え方に基づいたものであった。これは、最初の内は軍に優れた士気を与えた。戚継光の軍は、海賊対策という個別問題のための特例的な解決策であった。曽国藩が湘軍を創設したときの最初の意図もそれと同じことで、太平天国の反乱を鎮圧するための特例的なものという考えだった。しかしながら、反乱が続く社会状況の中で、勇営は清軍の常設部隊のようになっていった。そのことは長い目でみると清朝の中央政府にとっては問題を生じることとなる。 第一に、勇営の仕組みは清の軍事組織における満州人優位の原則の終焉につながりうる。八旗と緑営は国費を食いつぶながら寄生して生きながらえていたが、今後は勇営が清朝の事実上の第一線の軍隊となる。第二に、勇営の部隊の財源は地方財源から拠出され、地方の指揮官が指揮していた。この権限移譲は中央の朝廷が全国を掌握する力を弱めることになる。この弱点は、19世紀後半に清帝国の様々な地域で外国勢力が自治権のある植民地の獲得競争をするようになると、更に悪化した。これらの深刻な負の影響がありながらも、この方法が必要だとみなされたのは、反乱軍に占拠されたり脅かされた各省からの税収が、資金不足の中央朝廷に届かなくなっていたためであった。最後に、勇営の指揮構造の性質は、指揮官たちの間で縁故主義と身内びいきを助長した。ここで官位を上昇させた彼らが、清の最終的な滅亡と、20世紀前半の中国における地方軍閥抗争の種をまくことになったのである。 19世紀末頃までに、清帝国は半植民地国家へと急速に転落した。清朝廷内部の最も保守的な集団でさえ、諸外国の「蛮人」に比べて、清軍の弱さを無視することはもはやできなかった。第二次アヘン戦争中の1860年、首都北京の円明園は英仏連合軍25,000人の比較的小規模な部隊によって略奪された。
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