勇営の台頭とは? わかりやすく解説

勇営の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 05:28 UTC 版)

清の兵制」の記事における「勇営の台頭」の解説

太平天国の乱初期、清軍は立て続け大敗喫し1853年には華南中心都市南京奪われた。反乱軍南京満州人守備隊とその家族らを虐殺した上で、そこを太平天国首都とした。その後まもなく、太平天国外征軍は北に進軍し天津郊外まで達した天津帝都北京から近く帝国心臓部考えられている地域である。追い詰められ清朝漢人官僚曽国藩命じて反乱鎮圧にあたらせるために、地方(団勇)と郷村郷勇)の民兵組織させ、団練呼ばれる独立軍とした。曽国藩戦略は、太平天国軍からの直接脅威受けている省から、地方郷紳依頼して新し軍事組織立ち上げることであった。この新し軍隊は、それが徴募され湖南地方通称にちなん湘軍として知られるうになる湘軍地方民兵独立軍混成部隊であった湘軍専門的な訓練与えられたが、地方財源指揮官多く漢人郷紳階層)たちの拠出金から給与支払われていた。湘軍と、それを継承して曽国藩弟子李鴻章創設した淮軍まとめて勇営呼んだ湘軍創設し指揮執るまで、曽国藩軍事経験全くなかった古典的な教養学んできた文官である彼が描いた湘軍青写真は、歴史から学んだものであった明代将軍戚継光は、16世紀頃に、明の正規軍が弱いため、彼独自の「私兵」を設けて倭寇撃退することを決断した戚継光教義は、軍人直属の上に対して忠誠を尽くすとともに自分たちが育った地域にも忠誠を尽くすという宋明理学考え方基づいたものであった。これは、最初の内は軍に優れた士気与えた戚継光の軍は、海賊対策という個別問題のための特例的な解決策であった曽国藩湘軍創設したときの最初意図もそれと同じことで、太平天国反乱鎮圧するための特例的なものとい考えだった。しかしながら反乱が続く社会状況の中で、勇営は清軍の常設部隊のようになっていった。そのこと長い目でみると清朝中央政府にとっては問題生じることとなる。 第一に勇営仕組みは清の軍事組織における満州人優位原則終焉つながりうる。八旗緑営国費食いつぶながら寄生して生きながらえていたが、今後勇営清朝事実上第一線軍隊となる。第二に、勇営部隊財源地方財源から拠出され、地方指揮官指揮していた。この権限移譲中央の朝廷全国掌握する力を弱めることになる。この弱点は、19世紀後半清帝国様々な地域外国勢力自治権のある植民地獲得競争をするようになると、更に悪化した。これらの深刻な負の影響ありながらも、この方法が必要だみなされたのは、反乱軍占拠されたり脅かされ各省からの税収が、資金不足中央朝廷に届かなくなっていたためであった最後に勇営指揮構造性質は、指揮官たちの間で縁故主義身内びいき助長した。ここで官位上昇させた彼らが、清の最終的な滅亡と、20世紀前半中国における地方軍抗争種をまくことになったのである19世紀末頃までに、清帝国半植民地国家へと急速に転落した清朝廷内部の最も保守的な集団でさえ、諸外国の「蛮人」に比べて、清軍の弱さ無視することはもはやできなかった。第二次アヘン戦争中の1860年首都北京円明園英仏連合軍25,000人の比較小規模な部隊によって略奪された。

※この「勇営の台頭」の解説は、「清の兵制」の解説の一部です。
「勇営の台頭」を含む「清の兵制」の記事については、「清の兵制」の概要を参照ください。

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