創作、乱れた私生活
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1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった。 1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった。 同人雑誌『日本浪曼派』に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう。第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。 1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが、井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会芝病院に10日間入院した。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。 第3回に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。7月11日、上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。 詳細は「芥川龍之介賞#太宰治の落選について」および「佐藤春夫#人物」を参照 パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。
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