前半生と係累
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 05:49 UTC 版)
「コンスタンティウス・ガッルス」の記事における「前半生と係累」の解説
コンスタンティウス・ガッルスはコンスタンティウス・クロルスの息子でコンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスの長男として325年か326年に生まれた。母の名は父の最初の妻・ガラ(ガッラとも。325年頃は存命。兄弟にウルカキウス・ルフィヌスがいる)また、異母弟(母は父の後妻・バシリナ)に後のローマ皇帝ユリアヌスがいる。その他の兄弟姉妹には337年に殺された兄弟1人(名前不詳)、コンスタンティウス2世の最初の妻となった女性(名前不詳)、324年から331年の間(325年?)に生まれたネラティア・ガッラがいる。この3名はガッルスと同じ所生と考えられている。324年以後(325年?)に生まれた姉妹ネラティア・ガッラはウェッティウス・ユストゥス(315年 - ?)という男性と結婚し、娘ユスティナ(340年頃 - 388年頃)を儲けた。ユスティナは最初、コンスタンス1世を殺害し、その同母兄コンスタンティウス2世に敗れて死亡した簒奪帝マグネンティウスの妻であったが、後にウァレンティニアヌス1世の後妻となり、ウァレンティニアヌス2世、グラタ、ユスタ、ガラ(ガッラ)の1男3女を儲け、ウァレンティニアヌス朝の皇族となった。グラタ、ユスタは夭折し、ウァレンティニアヌス2世は妻子なく死亡、ガラは兄ウァレンティニアヌス2世がテオドシウス1世の下に亡命した際、テオドシウス1世の後妻となる。ガラとテオドシウス1世の間にはグラティアヌス、ガッラ・プラキディア、ヨハネスを儲け、ガッラ・プラキディアの子にウァレンティニアヌス3世がおり、テオドシウス朝の皇族を形成した。その血筋が皇位から離れた後もウァレンティニアヌス3世の子孫は6世紀の終わりまでコンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。このようにガッルスの傍系子孫(姉妹の血筋)は後世に残った。ガッルスの直系子孫も娘アナスタシアを通じて存続。その中には東ローマ帝国皇帝アナスタシウス1世がいる。アナスタシウス1世には507年に殺害された名前不詳の庶出の男子以外、子女がなく、この系統は断絶したが、妹カエサレアの血筋は6世紀の終わりから7世紀初めまで、弟パウルス(445年 - 496年)の娘エイレーネーがウァレンティニアヌス3世の曾孫アニキウス・オリブリオス・ミノールと結婚。このようにガッルスとその姉妹の系統は合体し、その血筋は少なくとも8世紀後半まで残っている。 ガッルスの母ガッラの先祖にセウェルス朝初代皇帝セプティミウス・セウェルス帝の従弟ガイウス・フルウィウス・プラウティアヌス(150年頃 - 205年)とその妻ホルテンシア(150年頃 - ?)がいる。プラウティアヌスは娘プブリア・フルウィア・プラウテッィラ(185年/188年/189年 - 211年/212年)をセウェルス帝の長男カラカラに嫁がせ、権勢を誇ったが、その権勢故にカラカラと対立・危険視され、暗殺された人物である。プラウティッラはカラカラとの間に名前不詳の女子を204年に儲けたが、カラカラによって追放され、後に皇帝となったカラカラに追放先で殺害(絞殺)されている。プラウティッラの娘も同時期に絞殺され死去した。プラウティアヌスには娘プラウティッラの他にガイウス・フルウィウス・プラウティウス・ホルテンシアヌス(170年 - 212年)という息子がおり、ホルテンシアヌスもまたカラカラ帝に粛清されている。ホルテンシアヌスはルキウス・アウレリウス・ガッルスの娘アウレリア(170年生誕)との間にフルウィア(192年 - ?)を儲け、フルウィアはルキウス・ネラティウス・ユニウス・マケル(185年生誕)と結婚、男子ルキウス・ユニウス・アウレリウス・ネラティウス・ガッルス・フルウィウス・マケル(205年 - 230年以降)がいる。その後はルキウス・ユニウス・ネラティウス・ガッルス・フルウィウス・マケル(230年- 260年以降)、ネラティウス・ガッルス(250年 - 280年以降)、ネラティウス・ユニウス・フラウィアヌス(275年 - 312年以降。妻はウルカキア(280年生誕))と続き、フラウィアヌスとウルカキアがガッルスの母ガッラの両親である。ガッルスはセウェルス帝の母方の従弟の雲孫、カラカラ帝の又従兄ホルテンシアヌス直系の子孫(ホルテンシアヌスから数えて8代目(7世孫))、ホルテンシアヌスの妹プラウティッラの姪の昆孫(同時にプラウティッラの娘の従姉の昆孫)となり、セウェルス朝の皇帝達と遠縁、縁戚関係にある(セウェルス帝、カラカラ帝、ゲタ帝の3人とは直接ではないが血縁関係にあり、ヘリオガバルス帝とアレクサンデル・セウェルス帝とは直接の血縁は無いが、カラカラ帝の母ユリア・ドムナを通じて遠縁)。つまり、ガッルスはセウェルス帝の母フルウィア・ピーアを通じて、傍系ながらセウェルス朝の血脈に属しているとも言える。 337年にコンスタンティヌス1世が病死した際、おそらくは皇帝コンスタンティウス2世の陰謀により親族が殺害されたがガッルスとユリアヌスの兄弟は幼少の為に見逃され殺害されなかった(その他生き延びた者にコンスタンティヌス1世の姉妹エウトロピアの息子ネポティアヌスがいる)。 ガッルスとユリアヌスの兄弟はビテュニアの祖母の許へ送られ学問をしつつ事実上の軟禁状態におかれた。ここで兄弟はコンスタンティノープルの聖職者であったエウセビオスに学んでいる。 エウセビオスの死後、おそらく342年ころ、ガッルスとユリアヌスの兄弟は皇帝領のマケッルムへ移された。マケッルムはカッパドキアの都市で、その名は「囲い地」を意味する。マケッルムで兄弟は外部との接触は極端に制限されていた。ガッルスとユリアヌスは奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、カッパドキアのゲオルギウスの蔵書を用いて勉学に励んでいた。 348年に軟禁は解かれ兄弟はコンスタンティノープルに召還されガッルスは宮廷に留め置かれた。
※この「前半生と係累」の解説は、「コンスタンティウス・ガッルス」の解説の一部です。
「前半生と係累」を含む「コンスタンティウス・ガッルス」の記事については、「コンスタンティウス・ガッルス」の概要を参照ください。
- 前半生と係累のページへのリンク