前半生と天体観測
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:24 UTC 版)
福島県原町市(現在の南相馬市)生まれ。幼少時から物静かな性格で、成績も優秀だった。福島県立相馬中学校(現:福島県立相馬高等学校)から東京の電気関係の学校に進学した。 天文学に興味を持ったのは1925年頃からで、当時発行されていた「科学画報」という雑誌がきっかけであった。1932年には天文同好会(のちの東亜天文学会)の機関誌「天界」に「日中に現れた流星」という観測記を寄稿するなど、長年にわたって在野での天文観測に取り組んでいた。 羽根田が彗星の捜索に初めて取り組んだのは1938年の秋のことで、当初は58ミリの屈折望遠鏡を使っていた。その後第二次世界大戦の勃発や仕事の関係により、一時期捜索を中断していた。 羽根田は川崎市で電気関連の仕事に従事していた。捜索を再開したのは1962年になってからで、この時期は関勉が彗星を発見して話題になっていた頃でもあった。もともと体が丈夫ではなかった羽根田はこの時期に体調を崩し、数年間捜索から離れることになった。仕事を辞めた後、1977年に故郷の福島県原町市馬場川久保(現:福島県南相馬市原町区馬場川久保)に帰住し、甥一家とともに暮らし始めた。 同年7月、羽根田は彗星の探索を再開した。羽根田は生来身体が丈夫ではなかったため、負担にならないように夜の8時半からと明け方の2時半からそれぞれ1時間を探索に充てる時間と決めていた。探索のために、自宅から150メートルほど離れた田圃のそばを選んで彗星探索用の観測小屋を造った。小屋を造った場所は、森や低山などに周囲を囲まれた形になっているため街の明かりが入ってこず、観測には好適な位置にあった。そこに土台として高く土を盛り、1メートル四方の小屋を据え付けた。小屋はベニヤ板製で、床下にはレールと戸車を据え付けて手動で回転させ、付属の望遠鏡を好きな方向に向けることができる工夫が凝らされていた。 愛用の望遠鏡は85ミリメートルの屈折望遠鏡で、対物レンズ以外は自作のものであった。望遠鏡の架台は、廃品となった赤道儀とカメラ用の三脚を再利用したもので、目の高さを一定に保つことが可能だった。
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