初演に対する評価
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初演に対する反応は賛否両論であり、ラストシーンの切腹シーンが集団自決のようだという批判もあった。しかし、どちらかと言えば歌舞伎をよく知っている人の方が、このバレエを好意的に見ていたとされる。 前述のフランソワ・ヴェイエルガンスによる『ル・モンド』紙上の記事「歌舞伎に飛翔するベジャール」(1986年5月18日・19日)は、ダンサーたちのレベルの高い踊りが観客を喜ばせ、判官の幽霊を登場させるなどのベジャールの工夫が日本人に高く評価され、日本人の中には終幕に感動して涙する者がいるとしながらも、文化の違いにより日本とヨーロッパでは全く異なった見方がされることを予測し、東京バレエ団はベジャールのネームバリューとエキゾチックなタイトル・テーマによりヨーロッパを席巻するだろうと、作品に普遍的な価値は積極的に見出していない。 同様に、4月21日付けの毎日新聞は、「欧州人に通じるか、死の美学」という見出しで、塩冶判官、勘平、四十七士が次々と切腹するこの作品の美学の真意がヨーロッパの人々に通じるのか、という不安を述べている。ただし、第6場「雪の別れ」における、塩冶判官の亡霊と顔世御前が由良之助に復讐を迫るシーンの緊迫感や、随所に登場する伴内の狂言回しぶりを「出色」と評価している。 一方、4月18日付けの朝日新聞夕刊は、「心理描写で本領発揮 ベジャール「ザ・カブキ」」と題し、特に後半部分の心理描写の見事さを高く評価し、ラストシーンは「死の美学を実演してみせるような幕切れ」と評している。 読売新聞は4月19日付け夕刊で大きく紙面を割き、『水戸黄門』などで知られ歌舞伎にも詳しい小説家 村上元三による批評を掲載した。村上はベジャールのこれまでのバレエを毛嫌いしていたことを告白しつつ、『ザ・カブキ』を高く評価し「忠臣蔵」を深いレベルまで読み込んで新しい作品を作り出したベジャールに敬意を表している。 見事なベジャールの世界-「ザ・カブキ」に脱帽 (略)当夜の『ザ・カブキ』のプロローグから、歌舞伎では大序に当たる鶴ヶ岡八幡宮社頭、そして刃傷の場面に至って、わたしは完全に脱帽した。『忠臣蔵』を下敷きにしているには違いないが、これは完全にベジャールの世界であり、そして『忠臣蔵』をこわしていない。ベジャールは『忠臣蔵』をよく理解して、どころではない。『忠臣蔵』の底に流れているものを、はっきりつかんでいる。 (中略) 芝居でいう討入りの場は、音楽もいいし、まさに圧巻であった。由良之助はじめ塩谷〔ママ〕浪人たちの群舞も見事だし、判官の亡霊も効果的で、クライマックスへ運んでいく動きも無理はない。フィナーレの背景に大きく輝く太陽は、まことに『ザ・カブキ』らしい終末であり、日本の好きなベジャールに好意以上のものを感じた。 客席には若い女性が多かったが、中には歌舞伎の『忠臣蔵』を観たこともない人がいただろうが、そういう人たちが『ザ・カブキ』を観て、どう思ったのか、それがききたかった。 ともかく、面白かった。最後に一言、「ベジャールさん有難う」。 — 村上元三(「読売新聞」4月19日付夕刊)、『読売新聞縮刷版1986年4月号』、783頁より引用 1980年代半ばの「忠臣蔵ブーム」の火付け役となったの丸谷才一も『ザ・カブキ』の初演を会場前列で鑑賞し、その後フランス文学者諏訪正との対談の中で同作品について語っている。丸谷と諏訪は、プロローグにおける「日の丸」の演出に対する違和感を示しつつも、ベジャールが直感的につかんだ「忠臣蔵」の本質が、偶然にも丸谷が提唱する考え方とほぼ一致していると結論づけている。
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