初演と演奏史
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「交響曲第6番 (ドヴォルザーク)」の記事における「初演と演奏史」の解説
初演は1881年3月25日、プラハでアドルフ・チェフの指揮の下、行われた。翌1882年にはライプツィヒとロンドンで、1883年にはウィーンで演奏された。このうちロンドンでの演奏はリヒターとロンドン・フィルハーモニック協会によるものである。リヒターは依頼当初、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏を計画していたが、実現することはなかった。ドヴォルザークの死後しばらくは演奏機会に恵まれなかったが、1950年代以降、アンチェル、クーベリック、ケルテス、ドホナーニ、ノイマン、スウィトナー、ビエロフラーヴェク、チョン・ミョンフンらによって、いくらか取り上げられるようになった。
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初演と演奏史
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「1812年 (序曲)」の記事における「初演と演奏史」の解説
『1812年』は1882年8月20日(ユリウス暦8月8日)、建設中の救世主ハリストス大聖堂で開かれたモスクワ芸術産業博覧会が主催するコンサートに於いて、イッポリト・アリターニ(英語版)の指揮により初演された。「イタリア奇想曲」とともにプログラムに載ったこの新作は、当時の新聞批評では凡作だと片づけられてチャイコフスキーの予感はこの時点では当たった。翌1883年4月7日にはニコライの兄アントン・ルビンシテインの指揮でサンクトペテルブルク初演が、1885年6月2日にはミリイ・バラキレフの手によってスモレンスク初演が行われた。転機は1887年3月17日に行われたサンクトペテルブルクでの再演で、チャイコフスキー自身の指揮によるこの演奏はチャイコフスキー自身が「完全な成功、大満足」と日記に記すほどの成功を収めた。11月にモスクワでの再演と三度目の演奏がともにチャイコフスキーの指揮で行われたあと、1888年に入って早々チャイコフスキーはヨーロッパ各地に演奏旅行に出かける。1888年2月のベルリンでのコンサートでは当初幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』がプログラムに入っていたが、ハンス・フォン・ビューローらが『フランチェスカ・ダ・リミニ』を『1812年』に差し替えるよう強く要望した。チャイコフスキーはベルリンに続いてプラハでの初演を指揮した。その後、1889年1月15日にジョージ・ヘンシェルの指揮でロンドン初演、1893年12月29日にはボストンにおいてエーミール・パウアの指揮によりアメリカ初演が行われた。1899年1月15日にはグスタフ・マーラー指揮のウィーン・フィルによりウィーン初演が行われ、当該演奏会は他にベートーヴェンの「セリオーゾ」のマーラーによる弦楽合奏版の初演、ならびにシューマンの交響曲第1番の同じくマーラー編による初演があった。日本での初演は定かではないが、1917年(大正6年)4月22日に日比谷公園野外音楽堂で行われた山本銃三郎陸軍一等楽長指揮の陸軍戸山学校軍楽隊による公園奏楽で演奏されている。 四部+児童合唱を交えたヴァージョンは引用された聖歌とロシア国歌が(本来の歌詞で)歌われるが、1960年代に指揮者のブケトフ (Igor Buketoff, 1915-2001)が作った再構成版と呼ぶべき編曲で、チャイコフスキーに直接由来するものではない。ブケトフ自身が指揮したニュー・フィルハーモニア管弦楽団の録音がRCAにあり、米Schirmerから合唱譜も出版されている。
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