初演と受容
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1912年の9月から、初演に向けた「ピエロ・アンサンブル」の練習が開始された。このアンサンブルは、指揮がシェーンベルク、語り手がツェーメ、ピアノがエドゥアルト・シュトイアーマン、フルートがハンス・ド・フリース(Hans W. de Vries)、クラリネットがカルル・エスペルガー(Karl Essberger)、ヴァイオリンがヤーコブ・マリニアク(Jakob Malinjak)、チェロがハンス・キントラー(英語版)(Hans Kindler)というメンバーであった。また、練習には、後に指揮者として活躍するヘルマン・シェルヘンが立会い、時にはシェーンベルクにかわって指揮を行った。 数十回の練習を重ねた後、1912年10月16日にベルリンのコラリオン・ザール(Choralion-Saal)において初演が行われた。ツェーメの意向により器楽アンサンブルはついたての後ろに隠され、ピエロに扮したツェーメただ一人が舞台に立った。 聴衆の反応は予想にたがわず賛否両論であり、アントン・ウェーベルンは初演時の口笛や嘲笑について触れつつも、最終的には「無条件の成功であった」と報告している。歌詞の冒瀆性についていくつか批判がなされたことに対し、シェーンベルクは「連中が音楽的であったなら、誰一人として歌詞を罵ったりはしまい。それどころか連中は、口笛を吹き吹き立ち去ろうとしたではないか」と反論した。 初演を終えた後、「ピエロ・アンサンブル」はウィーンやプラハ、シュトゥットガルトなどドイツ、オーストリアの11の都市を巡る演奏旅行を行った。二、三の都市では聴衆の騒ぎが起こったものの、聴衆の反応はおおむね好意的であった。 第一次世界大戦後の1921年には、シェーンベルクが主宰する私的演奏協会がウィーンやプラハにおいて『月に憑かれたピエロ』の再演を行った。これらの公演は成功し、海外でも同作品に対する関心が高まることとなった。さらに、1929年4月26日には、ウィーン国立音楽大学の学生が、同大学校長で作曲家フランツ・シュミットの指揮により『月に憑かれたピエロ』を公演で取り上げた。当作品が音楽大学の学生によって演奏されたのはこれが初めてであり、ウィーンの若い音楽家たちに強い影響を与えることになった。 1940年9月にはロサンゼルスにおいて、作曲者自身の指揮、エリカ・シュティードリー=ヴァーグナー(Erika Stiedry-Wagner)の語り、初演メンバーの1人であるシュトイアーマンのピアノ、他のメンバーによりレコーディングが行われた。以後、今日に至るまで様々なアーティストによる録音が残されている。
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初演と受容
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「交響曲第1番 (スクリャービン)」の記事における「初演と受容」の解説
1900年11月11日にペテルブルクにおいてアナトーリー・リャードフの指揮によって初演されたが、この時は現行の終楽章を含まないかたちでの上演だった。最初の全曲演奏は、1901年5月16日にモスクワで、ワシーリー・サフォーノフの指揮で行われた。ロシアの音楽評論家の反応は、圧倒的に否定的か、さもなくば無関心であった。とりわけ、時おりプロパガンダめいた衒学的なものと感じられる合唱フィナーレがきっかけで、初演後にかなりの指揮者が第6楽章を割愛しようとした。 スクリャービン作品の出版人にして庇護者だったミトロファン・ベリャーエフは、当然《交響曲 第1番》も発行してはいるのだが、大規模で贅沢な作品に対するスクリャービンの野望がほとんど何ももたらしはしなかったのだから、次回作の交響曲を合唱で始まるようにしようとすることは、さしあたって思い留まるようにとスクリャービンに警告した(実際、当初スクリャービンはそのような計画を持っていたが、後で撤回している)。 アーサー・イーグルフィールド=ハルは、全曲初演から15年後に、「《交響曲 第1番》は、非常に美しい傑作である」と評している。
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