初演とその後の評価
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1910年12月10日、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(メト)での初演は、エンリコ・カルーソー(ジョンソン)、エミー・デスティン(ミニー)、パスクワーレ・アマート(ランス)、トスカニーニ(指揮)という、当時世界的にも最高の陣容で行われた。 メトの巧みな宣伝工作もあって公演人気は沸騰しており、もともと他公演の倍価格に設定されたチケットが、セカンド・マーケットでは更に30倍のプレミアをもって取引された。初日の観客はJ. P. モルガン、グッゲンハイム家、ヴァンダービルト家などニューヨーク社交界勢揃いの観があった。当地の新聞は、世界最高峰と考えられていたオペラ作曲家がその新作をニューヨークで初演するということ自体、アメリカの文化がヨーロッパのそれに比肩し凌駕しつつあるのだという論調で、初演を好意的かつセンセーショナルに報道した。プッチーニにとっては、初演が成功で終わった数少ないオペラの一つである。 しかし、初演の興奮は急速に醒めていった。ヨーロッパ各地での現地初演は数年かけて行われていったが、そこでの評価はすでに、若干の留保を持ったものとなっている。 現在に至っても、このオペラは『ラ・ボエーム』、『トスカ』、『蝶々夫人』といった彼の代表作、あるいはそこまででなくとも、『マノン・レスコー』や『トゥーランドット』といった、各オペラ・ハウスでしばしばレパートリー上演される作品に比べて、一般的には高い評価を受けていないのが現状である。理由としては、簡単に口ずさむことのできるアリアの不在、全曲で多用されている大胆な不協和音、また皮肉なことに後世の我々は西部劇映画を数多く鑑賞してきたこともあり、このプロット自体が「オペラの舞台で、生ぬるいウエスタンをやっている」という感覚で見られてしまう面も否定できない。 一方で、全音音階を多用して無調音楽に一歩踏み出しているという点を、プッチーニの先進性を示すものとして注目する場合もある。 この作品は後年評論家から「プッチーニは現地を踏んだから失敗したのだ」と揶揄された。プッチーニ自身は日本も中国も訪れていない。想像だけで作り上げた幻想的なこれらの作品に比して、『西部の娘』は設定がリアルである、といわれる。 日本初演は1963年11月2日、東京文化会館でNHK招聘・第4次イタリア歌劇団による。ジョンソンには当初マリオ・デル=モナコが予定されていたが、重病で来日不能となり、ガストーネ・リマリッリとアントニオ・アンナローロのダブルキャストとなった。他にはアントニエッタ・ステッラのミニー、アンセルモ・コルツァーニのランス、オリヴィエーロ・デ・ファブリティース指揮・NHK交響楽団という陣容であった。
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