初演とパートの追加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 16:16 UTC 版)
「葬送と勝利の大交響曲」の記事における「初演とパートの追加」の解説
初演は1840年7月28日、パリの街頭で行われた。ベルリオーズは200人ほどの軍楽隊を自ら指揮し、「葬送行進曲」および「アポテオーズ」を演奏しながら、数時間にわたって葬列とともに行進した。バスティーユ広場に到着後、祈祷に続いて「追悼」が演奏された。予定では「アポテオーズ」の演奏で締めくくられるはずであったが、数万人規模の国民軍の行進がすぐ近くで行われたために台無しとなった。 初演は意図した通りにはいかなかったものの、ベルリオーズはその2日前の7月26日に、大勢の友人、批評家、音楽家らを招いた上でホールを用いての総練習を行っていた。その際に好評だったこともあり、同年のうちに3度の再演を屋内(ホールやオペラ座)で行った。なお、この時には『軍隊交響曲』(Symphonie Militaire)と題され、第2楽章は「告別の讃歌」(Hymne d'Adieu)と名付けられていた。 弦楽合奏などのパートを追加しての演奏は、2年後の1842年2月に行われた。アントニー・デシャンの詞による合唱が第3楽章に追加されたのは、同年9月にブリュッセルで行われた演奏会からである。現在の題名に改められたのもこの時である。
※この「初演とパートの追加」の解説は、「葬送と勝利の大交響曲」の解説の一部です。
「初演とパートの追加」を含む「葬送と勝利の大交響曲」の記事については、「葬送と勝利の大交響曲」の概要を参照ください。
- 初演とパートの追加のページへのリンク