初演と反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 15:47 UTC 版)
「弦楽四重奏曲第1番 (オネゲル)」の記事における「初演と反応」の解説
ダンディの示唆によれば、作品を受け取った独立音楽協会はオネゲルがスイス人であることを理由に1918年4月15日の演奏会への出展を却下した。チューリヒでは曲目選定委員会が作品の演奏を拒絶し、指揮者のフォルクマール・アンドレーエはオネゲルに「まだ学ぶことが沢山ある」と述べた。論争が巻き起こり、モーリス・ラヴェルは「これが美しいものなのか醜いものなのか分からず、苦い顔をさせられる」と反応した。オネゲルは可能な限り作品の擁護に努め、特に再現部において主題を逆転させる手法を弁護した。初演も計画されたが、第一次世界大戦の終末期にあって延期され、最終的に弦楽四重奏曲は1919年6月20日に、フェルナンド・カペレ(Fernande Capelle)の創立したカペレ四重奏団によって、パリにおける独立音楽協会の演奏会で初演された。同年の12月には同じ四重奏団がハーグや "Concerts d'Art et d'Action" において再演を行っている。 1920年に出版社ラ・シレーヌ(fr:éditions de La Sirène)から出版の申し出があり、それは次の年に実現しオネゲルは報酬として1000フランを受け取った。1921年に、彼は母親に四重奏曲を演奏できないかと手紙で訊いている。スイス初演はチューリヒで1921年11月30日に行われ、1924年4月4日にはジュネーヴで再演された。1951年に出版された『わたしは作曲家である』の中でオネゲルは、「いつも生きいきとした興味で受けいれられているとはかぎらないけども、いくつかの作品を内心では好んでいるのです。四重奏曲、とくに第一番、これは一九一七年のそれを書いた青年の人柄が正確に写されているので。これには欠点もあり、長すぎる。けれどもわたしは、鏡でもみるように、そこに自分をみるのです」と述べている。
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