初倉村時代
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明治11年、静岡県榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に帰農、初倉村の村議及び村長を務める。横浜の横浜海岸教会でその教義を知り大いに感銘を受け自らの不覚を愧じ、その信者となり牧師平岩愃保から洗礼を受けた。後半生はクリスチャンとして矯風事業に貢献した。また、同じクリスチャンである坂本直が主宰した龍馬の法要にも出席している。 明治33年(1900年)、今井は親しくしていたキリスト教伝道師結城無二三の子結城禮一郎の取材に応じ、近江屋事件への関与について語った。この内容は甲斐新聞に掲載されているが、結城が内容を飾り、誇張した形で掲載された。この証言では今井が実行犯となっている。以前の証言と異同が見られることについて菊地明は、今井が当初挙げた実行者は今井自身を除き全て鳥羽・伏見の戦いで戦死していることから、今井には渡辺篤や世良敏郎ら存命者をかばう意図があったのではないかと推測している。後に雑誌に転載されたものを見た谷干城は、中岡からの証言と異なっていることなどから今井の証言が偽物であり、「売名の手段に過ぎぬ」と度々発言している。このため当時は今井の証言が有力なものであるとは受け止められなかった。 その後、明治42年(1909年)12月17日、大阪新報記者和田天華の質問に対し、今井は、ようやく事実を話した。 1、暗殺に非ず、幕府の命令に依り、職務を以捕縛に向、格闘したるなり。 2、新選組と関係なし。予は当時見廻組与力頭なりし。 3、彼会て伏見に於いて、同心3名を銃撃し、逸走したる間罪の為なり。 4、場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり。 今井は、当時の政権を握る徳川幕府の命令によって行動したということに、確呼たる信念を有していた。それを、次いで政権を握った者の前に真相を明らかにし、極刑を処されるのは愚の至である。今井が、明治3年(1870年)の法廷において、自分は単なる見張役に過ぎなかったと述べたのは、当然の自己防衛であった。殊にその口書を仔細に見ると、上司や同僚の何人にも責を及ぼさぬよう、用意周到に陳述していることが観取される。 大正5年(1916年)、今井信郎は脳卒中で倒れ、2年間の病床生活の後、大正7年(1918年)6月25日、死去した、行年78歳、法名は「隆徳院殿信慶了義居士」。妻いわは、その1年半後、大正9年(1920年)1月25日に死去した。享年77歳。法名は「最勝院殿信屋知照大姉」。東京都文京区白山の法輪山寂圓寺には、父今井守胤、妻きね、今井信郎、妻いわ、信郎長女りう、三女つるの墓碑がある。 東京都文京区白山の寂圓寺(2019年6月19日撮影) 同左、寂圓寺本堂(2019年6月19日撮影) 同左、今井家累代之墓碑(2019年6月19日撮影)
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