初倉村時代とは? わかりやすく解説

初倉村時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:30 UTC 版)

今井信郎」の記事における「初倉村時代」の解説

明治11年静岡県榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に帰農初倉村村議及び村長務める。横浜横浜海岸教会でその教義知り大い感銘を受け自らの不覚を愧じ、その信者となり牧師平岩愃保から洗礼受けた後半生クリスチャンとして矯風事業貢献したまた、同じクリスチャンである坂本直主宰し龍馬法要にも出席している。 明治33年1900年)、今井親しくしていたキリスト教伝道師結城無二三の子結城一郎取材応じ近江屋事件への関与について語ったこの内容は甲斐新聞掲載されているが、結城内容飾り誇張した形で掲載された。この証言では今井実行犯となっている。以前証言異同見られることについて菊地明は、今井当初挙げた実行者今井自身除き全て鳥羽・伏見の戦い戦死していることから、今井には渡辺篤世良敏郎ら存命者をかばう意図があったのではないか推測している。後に雑誌転載されたものを見た谷干城は、中岡からの証言異なっていることなどから今井証言偽物であり、「売名の手段に過ぎぬ」と度々発言している。このため当時今井証言有力なのであるとは受け止められなかった。 その後明治42年1909年12月17日大阪新報記者和田天華質問対し今井は、ようやく事実話した。 1、暗殺非ず幕府命令に依り職務を以捕縛に向、格闘したるなり。 2、新選組と関係なし。予は当時見廻組与力頭なりし。 3、彼会て伏見に於いて同心3名を銃撃し、逸走したる間罪の為なり。 4、場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり。 今井は、当時政権を握る徳川幕府命令によって行動したということに、確呼たる信念有していた。それを、次いで政権握った者の前に真相明らかにし、極刑処されるのは愚の至である。今井が、明治3年1870年)の法廷において、自分単なる見張役に過ぎなかったと述べたのは、当然の自己防衛であった殊にその口書仔細に見ると、上司同僚何人にも責を及ぼさぬよう、用意周到に陳述していることが観取される。 大正5年1916年)、今井信郎脳卒中倒れ2年間の病床生活の後、大正7年1918年6月25日死去した行年78歳法名は「隆徳院殿信慶了義居士」。妻いわは、その1年半後、大正9年1920年1月25日死去した享年77歳法名は「最勝院殿信屋知照大姉」。東京都文京区白山法輪寂圓寺には、父今井守胤、妻きね、今井信郎、妻いわ、信郎長女りう、三女つるの墓碑がある。 東京都文京区白山寂圓寺2019年6月19日撮影同左寂圓寺本堂2019年6月19日撮影同左今井家累代墓碑2019年6月19日撮影

※この「初倉村時代」の解説は、「今井信郎」の解説の一部です。
「初倉村時代」を含む「今井信郎」の記事については、「今井信郎」の概要を参照ください。

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