初代の「非常」――婚約破談
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「伊藤初代」の記事における「初代の「非常」――婚約破談」の解説
1921年(大正10年)11月8日、再び菊池寛宅を訪ねた川端は、そこで初めて横光利一を紹介され3人で本郷区湯島切通坂町2丁目6(現・文京区湯島)の牛肉屋「江知勝」に行き、菊池に牛鍋を御馳走になった。横光が先に帰ると菊池は、がま口からお札を取り出して、引っ越しにかかる金を川端にくれた。 川端は感謝し、すぐさま団子坂(現・文京区千駄木2丁目、3丁目)に住む三明を誘って、初代との新居用の冬の座布団を5枚買い、明日引っ越す根津西須賀町の家に立ち寄って、その荷物が届いたら受け取っておいてもらうように家主・戸沢一家に頼んだ。他にも鏡台や女用の枕などを買わなければと嬉しく想いつつ、用事が済んだ川端が浅草区浅草小島町72の坂光子方の下宿に帰ると、初代からの手紙が届いていた。 私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。私今、このやうなことを申し上げれば、ふしぎにお思ひになるでせう。あなた様はその非常を話してくれと仰しやるでせう。その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。どうか私のやうな者はこの世にゐなかつたとおぼしめして下さいませ。あなた様が私に今度お手紙を下さいますその時は、私はこの岐阜には居りません。どこかの国で暮してゐると思つて下さいませ。私はあなた様との ○! を一生忘れはいたしません。私はもう失礼いたしませう――。(中略)さらば。私はあなた様の幸福を一生祈つて居りませう。私はどこの国でどうして暮すのでせう――。お別れいたします。さやうなら。 — 伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月7日付) 呆然自失した川端は、〈非常。非常。非常とは何だ〉と混乱の極致で初代の手紙を何度も読み返しながら電車に乗り、すぐさま団子坂の三明にも見せ、原因は男かと訝ると、三明も「女が言へないと言ふのは、処女でなくなつたことしかないね」、「この前来ると言つた時に、東京に来さしてしまへばこんなことはなかつたんだ。機会の前髪を掴まなかつたからいけないよ」と言った。 とにかく夜行列車で岐阜に行くことにした川端は、駒込郵便局で、「ミチコイエデスルトリオサヘヨ」という差出人無記名の電報を西方寺へ打った。三明は金を工面しようと友人のところへ寄ったが留守であったため、川端は東京駅で菊池寛宛てに借金申し込みの手紙を書いて三明に託し、1人夜行列車に乗車した。 翌11月9日の昼近く、川端は西方寺に着いた。突然現れた川端に怪訝そうな養母・高橋ていは、この頃初代を1人歩きさせないようにしていると言った。川端は初代が居ることを知って少しほっとし、彼女が家出したいと思うようなことがなかったかを訊ねたが、ちっとも存じませんと言われた。川端は詫びたいことがあると嘘を言って初代を呼んでもらった。 出て来た初代の〈苦悩のかたまり〉のような様子を一目見て、川端は、〈謝罪の気持〉で縮んだ。初代の皮膚は白い粉がふきカサカサで憔悴し、長い苦痛の色が見えた。自分との婚約が初代をこんなに苦しめ不幸にしたのかと川端は悟った。 この姿は、昨日今日の苦痛の結果ではない。この一月の間にみち子は、毎日父母と喧嘩をしてゐる、泣いてゐる、と云ふ手紙を私に十通よこした。それが私には空想の感傷だつたのだ。みち子には現実の苦痛だつたのだ。今空想が現実に対面したのだ。私の婚約の客観だ。どんな非常があるのかは分らない。しかし、私との婚約がみち子を泣きつぶしたのだ。 — 川端康成「非常」 川端が駅前の宿・濃陽館に戻ると、三明からの電報為替が届いていた。疲労でぐったりしていた川端は、三明にも岐阜に来てもらいたく電報を打ち、翌11月10日の朝、三明がやって来た。川端は初代への便箋20枚ほどの手紙を夕方までかかって書き、初代のための汽車賃と一緒に、西方寺に行く三明に託した。その手紙を見た初代の心は和らぎ、正月時の寺のどさくさに紛れて家出できるようにしたと三明は川端に報告した。
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