初代の変化――「非常」の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)
「伊藤初代」の記事における「初代の変化――「非常」の後」の解説
川端らが帰京すると、11月11日付で初代から謝罪の手紙が届いた。そこには正月に川端の元に行くということと、寺の親戚の娘が見ていたために、父親宛てに川端との婚約を断わる手紙を書いてしまった、だから父親から断りの手紙が来たら、事情を説明する手紙を書いてほしいということと、手紙の取次ぎは裁縫とお花を習っている家・村川で頼んでもらうという内容が記されていた。 11月21日、川端は初代の父・忠吉宛てに、その初代の手紙を引用しながら、〈初代様が何時東京に来ても困らないやうに致して御座います。将来が御心配でしたら、出来るだけ早く籍をいただきたいと思ひます。唯岐阜のお寺に、何時までも長い年月置くことは、私も厭で御座います。面談を要することがありましたら、何時でも御地へ参ります〉と書き送った。 10日間ほど音沙汰のない初代の手紙を気にかけながら、新居に初代を迎えるため、川端は女用の品物(鏡台、櫛、化粧品、裁縫道具など)を買い整える準備をしていると、11月24日付の手紙が初代から来た。川端が渡した汽車賃の小為替も返され、その内容はこれまでの初代の態度とは違う不可解な内容で、永久の分れを告げる最後の手紙であった。 あなた様は私を愛して下さるのではないのです。私をお金の力でままにしようと思つていらつしやるのですね。私は手紙を見てから、私はあなた様を信じることが出来なくなりました。私はあなた様を恨みます。私は美しき着物もほしくはありませんです。(中略)あなたは私が東京に行つてしまへば、後はどのやうになつてもかまはないと思ふ心なんですね。(中略)村川様方に下さる手紙もとうに私の手に入らないやうになりました。あなた様がこの手紙を見て岐阜にいらつしやいましても、私はお目にかゝりません。あなたがどのやうにおつしやいましても、私は東京には行きません。(中略)さやうなら。 — 伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月24日付) 川端は、初代を東京に迎えても、まだ15歳の彼女を抱かずに、しばらく少女のままにしておくべきでないかと真面目に悩んでいたのに、「お金の力でままにする」という言葉は心外であった。着物も、新しいものを持って初代を正式に迎えに行くため、仕立てるための寸法を聞いただけのことであり、悉くこちらの真意を曲げて取るような文面に絶望感を覚えた川端は、三明に相談に行った。 おそらく寺の養父母にいろんなことを吹き込まれ、感化されやすい初代が動かされてしまったのであろうかと2人は考え、あきれた娘だ、きっぱりやめたまえと三明は言った。初代の勝手な態度に呆れている三明の手前、仕方なく川端は諦めると言った。 その年の冬となり、川端は傷心と寒さに耐えかねて、3年前の1918年(大正7年)秋に行った伊豆湯ヶ島温泉に逃げたが、思うのは岐阜の田舎町で侘しく暮らす初代のことばかりで、「謹賀新年」とだけ書いた年賀状を初代に出した。初代はその年1921年(大正10年)11月に、岩手県江刺郡岩谷堂に帰り、1か月ほど父・忠吉と妹・マキと暮らしたが、そこに落ち着けずに再び東京へ出て、カフェの女給として働くことになった。
※この「初代の変化――「非常」の後」の解説は、「伊藤初代」の解説の一部です。
「初代の変化――「非常」の後」を含む「伊藤初代」の記事については、「伊藤初代」の概要を参照ください。
- 初代の変化――「非常」の後のページへのリンク