初代の上京――暴力団の一夜
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「伊藤初代」の記事における「初代の上京――暴力団の一夜」の解説
1922年(大正11年)3月、川端が石濱金作らと久しぶりに本郷元町のカフェ・エランに行ってみると、以前いた女給の1人が新たな経営者と夫婦となっていて、彼女から初代が東京で来ていることを知らされた。早速、初代が働いているという本郷3丁目のカフェ・パリに行って覗くと、初代の姿が見え、石濱らはすぐに店に入ろうとするが、川端はそれを押しとどめ、明日自分1人で会いたいと言った。翌日、学年試験の後1人で店に入り、初代にもう一度考え直してほしいと川端は頼むが、初代は、もう自分はいない者と思って忘れていただきたいと冷たい態度で川端を帰した。 その後日、川端は石濱と一緒にカフェ・パリに行くが初代は店に出ておらず、朋輩の女給から初代は権藤(あるいは権堂)という20歳の学生(福岡県出身の百万長者の息子)の下宿に行っていると告げられた。その雨の夜、石濱に促され、権藤の下宿屋の前まで行ってみた後、川端は石濱の下宿に泊まり、霰の降り出した朝まで語り明かした。 翌日の夜もカフェ・パリに行くと、初代はついさっき来て、夜行列車で権藤の故郷の九州に行くと朋輩の女給に告げていた。川端と石濱がそのまま店の二階にいると、階下に、一高と帝大の先輩の川島(仮名)がやって来た。「パルチザン」という渾名の川島は法学士と弁護士の資格を持ち柔道四段で、この界隈の不良仲間の首領格として、私大の柔道選手らを引き連れていた。 前から初代に目をつけていた川島は、店の帳場で畳に短刀を突き立てながら、店の主人に初代の居所を聞き出すと、それならお前が2人(初代と権藤)をまとめてやれと引き下がり、川端と石濱を飲みに誘い無銭飲食で2、3軒つき合わせた。無頼な川島連中は、関係のない客に理由なくつっかかり喧嘩をした後、川端と別れる時に、初代のことはさっぱり諦めろと忠言した。 カフェ・パリには何人もの客が初代を目当てに通い、結婚の口約束をした翌日に、初代の名前を左腕に刺青して来た男もいた。その頃のカフェを知る今東光によると、初代に惚れ込んだヤクザな常連客が、自分の女に横恋慕する奴だと川端を名指しし、撲るとか斬ると言っていたのを知ったため、今東光は相棒の宮坂普九と一緒に、「其奴を殴り倒し二度と川端に対して手を出せないように仕様と、実は短刀まで用意した」と述懐している。川端は、荒れたカフェと自身の内面を交錯させるように小説に綴った。 彼女が東京に来てカフェに出ると、そこはカフェを荒し廻つてゐた暴力団の刃傷沙汰の中心になつてしまつた。僕はそのカフェに通つて、斬られて血を流したり、投げられて骨を挫いたり、首を締められて気絶したりする者達を、平然と眺めてゐた。 — 川端康成「処女作の祟り」
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