再び東京とは? わかりやすく解説

再び東京

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:26 UTC 版)

志賀直哉」の記事における「再び東京」の解説

1938年昭和13年3月東京淀橋区諏訪町貸家引っ越す。奈良での生活を気に入っていた直哉だが、男の子教育東京で受けさせたい2年前に直吉学習院編入試験を受けさせ、妹の実吉英子宅に預けて通わせていた。まず1937年昭和12年10月康子夫人留女子・田鶴子・貴美子連れて上京し直吉貸家入居翌年3月女学校卒業した寿々子・万亀子と直哉合流した1937年昭和12年9月改造社から『志賀直哉全集9巻刊行始まり翌年6月完結する直哉最終回配本月報寄せた全集完了」の短文で「私は此全集完了機会に一ト先づ(ひとまず文士廃業し、こまこました書きものには縁を断りたい思ふ」と作家活動からの廃業宣言する直哉支那事変に始まる日本優位な戦局報道立腹しており、物を書こうとしても不満が文面出そう書けなかった。下落合仕事用のアパート借りた直哉油絵熱中し憂鬱な気分から救われる1939年昭和14年前後胆石苦しむ。1940年昭和15年5月世田谷区新町に家を買い引っ越す。奈良の家を売って引っ越した新居直哉は大変気に入り執筆活動再開1941年昭和16年)、直吉との京都・奈良北陸旅行経験綴った早春の旅」を発表する太平洋戦争中1942年昭和17年2月17日直哉の「シンガポール陥落」がラジオ朗読放送され文藝3月号にも再録される。シンガポールの戦い勝利を称えた内容で、この頃直哉国内戦争勝利報道熱狂する世論同調していたが、その後3年沈黙する鈴木貫太郎の「日本勝って負けて三等国に下る」という発言鈴木家出入りしていた門下網野菊から聞かされたからとも言われる。このことは戦後発表した随想鈴木貫太郎」に記されており、鈴木内閣によって戦争が終わることを期待していたという。また戦時中広津和郎近所住んでいて頻繁に訪問していたが、広津は「話すことは殆んど始終同じことであった何という見通しのない戦争始めてしまったものかということ一刻も早くこの戦争止めて貰いたいということ」と述べており、沈黙している間に反戦論転じていたと考えられる敗戦近づく直哉外務大臣当時)の重光葵意向汲み安倍能成加瀬俊一田中耕太郎谷川徹三富塚清武者小路実篤山本有三和辻哲郎とともに三年会」を結成する。これは敗戦後国内混乱阻止目的話し合う会だった。この「三年会」は戦後同心会」に発展するが、直哉含めた同心会」のメンバー雑誌世界』の創刊深く関わることになる。

※この「再び東京」の解説は、「志賀直哉」の解説の一部です。
「再び東京」を含む「志賀直哉」の記事については、「志賀直哉」の概要を参照ください。

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