70歳で医学博士、そして再び東京五輪コーチに
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「岡部平太」の記事における「70歳で医学博士、そして再び東京五輪コーチに」の解説
1956年(昭和31年)ブリヂストン社長の石橋正二郎に招かれ、久留米市の石橋文化センター体育部長に就任。同年、国士館短期大学教授に就任。 1957年(昭和32年)著書『スポーツと禅の話(あがる心理の究明と克服)』(不昧堂出版)刊行。 1960年(昭和35年)著書『コーチ50年』(大修館書店)刊行。 1961年(昭和36年)70歳で論文「年齢別にみた水泳のエネルギー代謝」によって、久留米大学より医学博士の学位を授与される。(岡部は早くから水泳における記録と年齢の相関に注目しており、特に、女子は年齢が低いことが記録に有利に働くことを戦前から気づいていた。)また、この年1964年東京オリンピックの陸上競技強化本部の強化コーチを委嘱される。 1962年(昭和37年)1960年ローマオリンピックマラソン優勝者アベベ・ビキラの強さの秘密は高地にあると考え、高地トレーニングを提唱。単身でアベベの出身地エチオピアに視察に行き、現地の選手が標高2,500m以上の高原で練習している事を知る。帰国後、信州等で人体実験を行い有効性を実証した。 1963年(昭和38年)マラソンを中心に多年スポーツ界に尽くした功労で 昭和37年度『朝日賞』を受賞。授賞式では盟友である金栗四三が祝辞を述べている。4月、九州産業大学教授に就任。8月、脳溢血で倒れる。 1966年(昭和41年)11月6日、3年間の闘病の末に75歳で病没。 病床での最後の言葉は「あゝ運動場に立つだけでも良いから、一度いきたい」であったという。
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