八雲をめぐる人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 07:36 UTC 版)
セツ(妻) 妻セツは日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞かせるため、普段からそれらの資料収集に努めた。彼女以外の家族・使用人・近隣住民、また旅先で出会った人々の話を題材にした作品も多い。 浅野和三郎(教え子、心霊研究家) 浅野は第一次大本事件の陳弁書でハーンの印象を回想している。また、「自分は二十余年前の当時を回顧して見ると、小泉師の講堂丈にはモ一度入つて聴講したいやうな気分がする」と回顧する。『英文学史』の中ではハーンについて「其真実の籍は米国にもあらず、又日本にもあらずして、美文の世界に在り」と記した。 田部隆次(教え子) 田部は早稲田大学の委嘱で書いた伝記「小泉八雲〜ラフカディオ・ヘルン〜」の中で、古くから日本名「八雲」については「音読みにするとハウンになる」こととの関連を指摘されることが多かったらしいことに関連し「八雲はハウンに通じるという考えは少しもなかった」と明記している。 田部重治(教え子田部隆次の弟) 田部隆次の弟、田部重治は兄からハーンの逸話を聞き「英文学界そぞろ歩き」(『英語青年』1967年9月号)として発表した。それによれば、ハーンは学生に題名を与えて感想・随筆の懸賞を行い、受賞者には文学全集を与えた。田部、浅野、大谷正信、戸沢正保達が受賞したという。 川田順(教え子) 東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。川田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の夏目漱石についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。 本田増次郎(熊本第五高等学校時代の同僚) 本田によると、失明した左目はひどく突き出ており、右目は強度の近視で、ページに額をこすりつけて一字ずつ追わないと読めないほどで、背中が曲がり変形していたという。また、本田の回想によると、ハーンは一種の人間嫌いになっていたが、白人種の中にいるよりは日本人の中にいるほうが気に障らないと感じていた。そして本田は更に、小泉の性格について病的なほど神経質で猜疑心が強く、「文学者は作品を介して敬服するに越したことはない。個人的なお付き合いをするとひどく失望させられるからだ。ハーンもこの一般原則の例外ではなかった」と語っている。 内ヶ崎作三郎(衆議院副議長) 内ヶ崎は田部隆次著『小泉八雲』に序文「小泉八雲先生を懐ふ」を寄せ、この中で「されど先生の清く澄んだ歌ふがごとき声がかすかに微笑を湛ゆる口辺より洩るるを聞く時は、その事自身が一種の魔力であった」と述べて浅野と同じく“魔力”の表現を使った。 西田幾太郎(哲学者) 西田も田部のハーン伝記序文で「ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた。かれは我々の単純なる感覚や感情の奥に過去幾千年来の生の脈搏を感じたのみならず、肉体的表現の一々の上にも祖先以来幾世の霊の活動を見た。(中略)氏の眼には、この世界は固定せる物体の世界ではない、過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である。」と述べ、ハーンの神秘主義を指摘している。 巖谷國士(フランス文学者) 巖谷は自著「オデュッセウスの旅」(『作家の旅』平凡社)で「移り住んだ土地を列挙しただけでも、興味ぶかい事実に思いあたる。島を好んだということだ…琉球諸島まで航海する計画まで…」「ハーンの生涯の旅程から知られるもうひとつの事実は、ロンドンやパリやニューヨークには居つかず、いわゆる辺境を選んで住んだということである」などと小泉について評している。
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