八部衆像
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乾漆八部衆立像 8躯(国宝館所在)(国宝) 奈良時代、天平6年(734年)。8体のうち三面六臂の阿修羅像が著名である。像高 五部浄(ごぶじょう)50.0cm(現存部)、沙羯羅(さから)154.5cm、鳩槃荼(くばんだ)150.5cm、乾闥婆(けんだつば)148.0cm、阿修羅153.4cm、迦楼羅(かるら)149.0cm、緊那羅(きんなら)152.4cm、畢婆迦羅(ひばから)155.4cm 八部衆像8躯は、西金堂に安置された釈迦集会(しゅえ)群像の一部であった。8躯のうち三面六臂の阿修羅像は特に著名である。現存する八部衆像と十大弟子像については、西金堂創建時の作品とするのが一般的だが、額田寺(現在の大和郡山市・額安寺)から移された像であるとする説もある。京都国立博物館本「興福寺曼荼羅図」の西金堂の部分を見ると、八部衆像8躯は本尊釈迦如来の前方左右と後方左右に2躯ずつ配置されていたことがわかる。正倉院文書の「造仏所作物帳」には、西金堂の造像に携わった工人である仏師将軍万福と画工秦牛養(はたのうしかい)に粮米が支給されたことが記録されている。ただし、西金堂諸仏の作風は、将軍万福という特定人物の個性の発現というよりは、この時代一般の作風とみるべきである。8躯のうち、五部浄像は大破し、胸から上の部分を残すのみである。明治時代の古写真をみると、他の像も修理前にはかなりの損傷をこうむっていた。台座は乾闥婆像と緊那羅像の分が後補である。 八部衆とは「8つの種族」の意で、古代インドの神話伝承に起源を持ち、後に仏教に取り入れられ、仏法の守護神とされた。『法華経』『金光明最勝王経』などに説かれる八部衆は以下のとおりである。 天(てん、デーヴァ)サンスクリットで「神」を意味する 竜(りゅう、ナーガ)漢訳では「竜(龍)」の字をあてるが、インド神話では蛇神 夜叉(やしゃ、ヤクシャ)インド神話に登場する鬼神 乾闥婆(けんだつば、ガンダルヴァ)半身半獣の音楽神 阿修羅(あしゅら、アスラ)帝釈天に敵対した戦闘の神 迦楼羅(かるら、ガルダ)鳥を神格化した半神半鳥の神、金翅鳥(こんじちょう)とも 緊那羅(きんなら、キンナラ)半人半獣の歌舞神 摩睺羅伽(まごらが、マホーラガ)蛇頭人身の音楽神 興福寺の八部衆像の像名は上記のものとは一部異なっており、8躯の像名は五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)となっている。8躯のうち、獅子冠を被る乾闥婆像、三面六臂の阿修羅像、鳥頭人身の迦楼羅像、三眼と一角を有する緊那羅像の4躯は、図像的特色からみて、寺伝の像名が本来の像名と思われるが、五部浄、沙羯羅、鳩槃荼、畢婆迦羅の4躯については、寺伝による名称が本来の像名であるかどうか判然としない。江戸時代の史料である『興福寺濫觴記』には八部衆の個別の像名が記されているが、そこには「五部浄」の名はなく、代わりに「復鉢羅竜王」(または優鉢羅竜王)という名称がみえる。このことからも、現在の像名がさほど古くからのものではないことが窺える。 五部浄像 - 大破し、胸から上の部分を残すのみである。なお、本像の右腕の部分は寺外に流出して民間の所蔵となっていたが、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。象頭冠を被り、顔貌は憂いの表情を見せ、十代の少年を思わせる若年の相につくられている。八部衆のうちの「天」に該当するともいうが、定かでない。 沙羯羅像 - 眉を寄せ、憂いの表情を見せる若年の相につくられる。頭頂から左肩にかけて蛇が巻き付く。八部衆のうちの竜または摩睺羅伽にあたると推定される。 鳩槃荼像 - 開口し、髪を逆立てた形相の像で、八部衆の他の像の静かな表情とは対照的である。8躯のうち本像と迦楼羅像のみ、瞳に黒色の別材を嵌入している。 乾闥婆像 - 獅子冠を被り、両目はほとんど閉じている。 阿修羅像 - 本像については後述する。 迦楼羅像 - 半鳥半人の姿で、首から下は人間と大差ないが、顔貌、特に嘴は完全に鳥として表されている。 緊那羅像 - 額に縦に第三の眼があり、額上に一角を有する。 畢婆迦羅像 - 他の像と異なって壮年の相につくり、あごひげをたくわえている。西金堂八部衆像の残りの7躯が天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅に該当するとすれば、残る本像は蛇神の摩睺羅伽像ということになるが、本像には図像的に蛇を表す要素はなく、摩睺羅伽像とする確証はない。
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