八部から谷田部へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:15 UTC 版)
「谷田部 (つくば市)」の記事における「八部から谷田部へ」の解説
谷田部は古くから開けた地域であり、縄文時代の遺跡や古墳が多く発見されている。福田坪では数多くの縄文時代の集落跡の遺跡が見つかっており、縄文土器や石斧・石鏃などの石器、土師器が出土している。平安時代には『和名抄』に記録のある常陸国河内郡7郷の1つ「八部郷」の一部であり、八部郷は仁徳天皇妃の八田若郎女のために設置された名代だったとされる。現在の谷田部は八部郷の中心地であったと言われている。 戦国時代には田中荘の一部として「やたへ」が登場し、『上杉氏文書』によれば永禄年間(1558年 - 1570年)には小田氏の盟友・岡見氏の拠点であった。そのため、小田氏と敵対した佐竹氏や多賀谷氏によって谷田部侵攻がたびたび行われ、谷田部城をめぐる攻防が繰り返された。元亀元年(1563年)、ついに岡見氏の谷田部城は多賀谷政経によって落城、多賀谷氏が慶長6年(1601年)に改易となるまで下妻城主の多賀谷氏配下となった。文禄3年(1594年)、太閤検地が実施されたのをきっかけに、筑波郡へ組み込まれた。
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