一対の風神と雷神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 00:15 UTC 版)
東洋美術には古くから風神と雷神を扱う作品があり、中国で1世紀に作られた武氏祠に風伯と雷公が彫られているほか、北魏の元叉の墓の天井画は、星図を挟んで周囲に太鼓を巡らせた雷公と布を広げた風伯が対になっている。ただし、「雷公」という言葉の初出である屈原の『楚辞』では雷公と雨師(英語版)(水神)が併称されているように、必ずしも風神と雷神で対になっていたわけではない。他方で、敦煌の莫高窟から見つかった多くの仏教美術にも風神雷神を扱ったものがあり、例えば第249窟の天井画では風袋を携えた風神と太鼓を輪形に並べて捧持する雷神が描かれている。また、彫刻としては南京の栖霞寺舎利塔の釈迦八相「降魔」(602年)の例がある。 日本にも風神や雷神への信仰は古くからあったが、一対の風神と雷神というモチーフの主要な起源は、やはり中国伝来の仏教美術である千手観音二十八部衆像、俗に千手観音曼荼羅とも呼ばれるもので、中央の千手観音を本尊として周囲に二十八部衆を配置した構図であり、主に平安時代後期から鎌倉時代にかけて流行した。ここでの風神と雷神は千手観音の眷属であるが、時代や状況によって二十八部衆に含まれる場合とそうでない場合がある。後者の代表例が鎌倉時代に作られた三十三間堂の木造風神・雷神像(国宝)であり、国内に現存する風神雷神の彫像では最も古い。なお、千手観音の右上に雷神が配置される彫像は、四川省の蒲江石窟(中国語版)第10号龕に先例がある。 千手観音二十八部衆像細見美術館蔵 千手観音二十八部衆像ボストン美術館蔵 三十三間堂の風神 三十三間堂の雷神 浅草寺の雷門 千手観音二十八部衆像の流行前の例には、奈良時代の『絵因果経』降魔(醍醐寺蔵、国宝)があるが、この風神と雷神は降魔図にありがちな立ち位置で独立性がない。一方、平安時代の『金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図』(中尊寺蔵、国宝)の第8幀、第9幀に描かれた風神雷神は、『金光明最勝王経』7巻14品「如意寶珠」に描写される四方位の光明電王に対応するもので、千手観音二十八部衆像の風神雷神に近い形である。 千手観音二十八部衆像の流行とは別に、同時期に並行する形で天神信仰も盛んになっており、鎌倉時代には『北野天神縁起絵巻』(承久本)などの風神と雷神を題材とした「天神縁起」と呼ばれるジャンルの絵巻物が次々と描かれ[要出典]、雷公祭と風伯祭が同日に北野天満宮に隣接する右近の馬場で催された[要出典]。 承久本(複写) 雷神 北野天満宮蔵 弘安本 雷神 北野天満宮蔵 旧井上家本 風神 メトロポリタン美術館蔵 旧井上家本 雷神 メトロポリタン美術館蔵 松崎天神縁起絵巻 防府天満宮蔵 仏教美術や縁起絵巻の風神雷神、室町時代の『仏鬼軍絵巻』(十念寺蔵、重要文化財)の風神雷神、さらには俵屋宗達以降に描かれた風神雷神も、漢代に遡る中国伝来の形を残しながら変遷してきている。
※この「一対の風神と雷神」の解説は、「風神雷神図」の解説の一部です。
「一対の風神と雷神」を含む「風神雷神図」の記事については、「風神雷神図」の概要を参照ください。
- 一対の風神と雷神のページへのリンク