八上城の戦い
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廃城になるまで数多くの籠城戦が繰り返された。 主な八上城の戦い合戦名勝者敗者合戦の時期第一次八上城・神尾山城両城の戦い波多野元清 細川尹賢 大永6年(1526年)10月 - 11月 第二次八上城の戦い波多野元秀 三好長慶 天文21年(1552年)4月25日 - 5月23日 第三次八上城の戦い波多野元秀 三好宗渭 天文24年(1555年)9月27日 第四次八上城の戦い波多野元秀 松永孫六(籠城側) 永禄9年(1566年)2月26日 第五次八上城の戦い(丹波国征討戦)明智光秀 波多野秀治 天正6年(1578年)9月 - 天正7年(1579年)6月
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八上城の戦い
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「八上城の戦い (1578年)」の記事における「八上城の戦い」の解説
天正6年(1578年)のものと考えられる9月13日付の書状で、翌14日に亀山に着陣し、18日に八上城背後の山に陣取ると光秀は記している。また、赤井氏・荻野氏の黒井城と波多野氏の八上城との連携を阻止するため、氷上郡と多紀郡の境に金山城(丹波篠山市・丹波市)を築いた。 同年10月21日、摂津国有岡城(伊丹市)の荒木村重が謀叛を起こすと、光秀はその糾問のための使者の1人として村重のもとに赴き、村重の叛意が明らかになるとそれを攻める軍勢に加わるなどした。光秀は村重が波多野氏と手を組むことを警戒しており、村重家臣の三田城主・荒木重堅が八上城への援軍に来た場合、三宅秀満(明智秀満)を亀山に派遣すると小畠永明に伝えている。11月14日には、光秀の留守をついて、波多野方から明智方に攻撃が仕掛けられていた。 12月21日に八上城攻めへと戻った光秀は、八上城の周囲に堀や柵を何重も設け、厳重な包囲を築いた。これにより、9月頃から進められていた八上城への付城構築がほぼ完成し、有岡城攻めや三木城攻めと同様、徹底した兵糧攻めが行われることとなった。 これに対して、天正7年(1579年)1月26日以前、波多野方は籠山(ロウ山)の付城を襲撃し、明智方の小畠永明が戦死している。小畠永明は光秀より明智姓を与えられており、光秀から信頼される武将だった。 波多野秀治は2月晦日付で兵庫屋惣兵衛に対して徳政の免除などをしており、また摂津から八上城に兵糧が送られたとの伝承もあり(『摂陽群談』・『丹波志』)、八上城には外部から兵糧が運び込まれていた可能性がある。 しかし、八上城攻めは順調に進んだと考えられる。4月4日付光秀書状によると、城中からは助命・退城の懇望が繰り返し届き、4、500人が餓死して、生きて出てきた者も青くむくんでいたという。 籠城途中で八上城から退城した波々伯部氏の家系の記録には、籠城中に食糧が尽き困窮すると、城主の波多野氏を捕らえて降参すべきだと内談する者が現れ、同士討ちが生じたとある。 5月5日、八上城の支城である氷上城(丹波市)が落城し、城主の波多野宗長・宗貞父子が自害したとみられる(『兼見卿記』)。 5月6日、光秀は小畠永明に代わり八上城攻めに加わっていた永明の兄・常好らに対し、「城中調略」を進めたためまもなく本丸が焼け崩れると伝え、その際も持ち場を離れぬよう厳命している。 6月1日、八上城は開城した。この時、波多野方の400人余名が討死し、光秀麾下の明智秀慶(佐竹宗実)兄弟が負傷している(『兼見卿記』)。 『信長公記』によると、食べる物のなくなった城兵が了簡も尽き果てて無体に出てきたところを悉く斬り捨て、「調略」により「波多野兄弟三人」を捕らえたという。この調略は波多野秀治兄弟への開城交渉とも、波多野兄弟を捕らえて差し出すよう城内に働きかけたものとも考えられる。 この後、波多野兄弟(秀治・秀尚・秀香)は安土へと送られ、6月8日に処刑された。
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