優生保護法の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:37 UTC 版)
1907年にアメリカ合衆国のインディアナ州で世界初の優生思想に基づく中絶・堕胎法が制定された。それ以降、1923年までに全米32州で制定された。カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者なども対象となったこともあった。優生学は20世紀には世界的に国民の保護や子孫のためとして大きな支持を集めていた。日本では戦後の当初は1948年(昭和23年)に優生保護法という名称で施行された。この法律は、戦前の1940年(昭和15年)の国民優生法と同様優生学的な色彩がある法律である。明治刑法第2編第29章で「墮胎の罪」を定めて中絶した者や中絶を介助した者には刑事罰を与えていた一方、国民優生法は、「国民素質ノ向上ヲ期スルコト」を目的とすることを謳って親の望まぬ不良な子孫の出生と流産の危険性のある母胎の道連れの抑制、多産による母体死亡阻止を目的とした。日本では中絶という行為がキリスト教国のように宗教的タブーであるとは見なされていなかったため、出産という女性への選択肢の位置づけがなされていた。状況によっては家族や後見人が中央優生審査会、地方優生審査会に手術申請を行うことや、中絶や放射線照射の処置を可能としていた法律である。なお当時存在した日本優生学会(1925年創立、阿部文夫、岡本利吉、他)では同法に併せて不妊手術の状況を報告し、また人口増加問題も論じている。 第二次世界大戦における敗戦によって日本本土は大勢の引揚者・復員者を迎えた上に、第一次ベビーブームにより人口増加が問題となり、人口増加を抑制する必要が認識されていた。その一方で、食糧難や住宅難などを背景に、違法かつ不衛生で危険な堕胎が頻繁に行われ、女性の健康被害が生じていた。戦後の優生保護法は、このような戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦を含む望まぬ妊娠問題、堕胎は女性の権利であるとの意識(プロチョイス)を背景にし、革新系の女性議員にとっては、妊娠中絶の完全な合法化させるための手段である側面があった。1946年(昭和21年)4月10日に行われた戦後初の選挙である第22回衆議院議員総選挙で日本初の女性国会議員として当選した革新系女性議員らは、第1回国会において国民優生法案を提出した。日本社会党の福田昌子、加藤シヅエといった革新系の政治家は母胎保護・女性の妊娠拒否権の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがある胎児とされた時点、女性が出産を拒否できる堕胎の選択肢の合法化を求めた。彼女らは死ぬ危険のある、出産という行為は女性の負担だとして人工中絶の必要性と合法化を主張していた。加藤などは貧困の中で子供が多くの子供を育てている外国の貧民街の多産と貧困問題を目の当たりにして、帰国直後の1922年には社会運動に理解のあった夫と日本で産児調節運動を開始していた。石本静枝として産児制限運動を推進するなど母胎保護には望まぬ出産への中絶の権利や母胎への危険のある出産を阻止する方法が女性に必要だと訴えていた。産婦人科医も2018年度の中絶実施件数は16万1741件で、1955年の中絶実施件数117万件を超えであったことから、「まさに隔世の感がある」と比較している。中絶激減原因について、日本人女性の社会的な地位の向上、避妊のためのコンドームの普及、セックスに対する消極性などが関係していると分析されている。
※この「優生保護法の成立」の解説は、「母体保護法」の解説の一部です。
「優生保護法の成立」を含む「母体保護法」の記事については、「母体保護法」の概要を参照ください。
- 優生保護法の成立のページへのリンク