信越窒素肥料の設立
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先に触れた信越窒素肥料(1940年に信越化学工業へ社名変更)は、信濃電気の兼営カーバイド事業から派生し、社内最大の大口需要家となった化学工業会社である。 大正時代の大戦景気期以降、日本のカーバイド工業ではカーバイドの窒化により窒素肥料の一種石灰窒素を、またそれを原料に硫酸アンモニウム(変成硫安)を製造するという石灰窒素事業が盛んになっていた。主な石灰窒素メーカーとして九州に工場を持つ日本窒素肥料(後のチッソ)や新潟県西部の青海へ進出した電気化学工業(現・デンカ)が挙げられる。長くカーバイド専業であった信濃電気においても高沢第二発電所の建設を機にカーバイド増産とあわせた石灰窒素製造への参入を立案する。単独での石灰窒素事業には高い参入障壁が存在したが、業界大手の日本窒素肥料の協力を取り付けた。日本窒素肥料では当時ハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成工場を新設して合成硫安の製造に成功しており、不要となった石灰窒素法による変成硫安工場(熊本県の鏡工場)を転用する道を探っていたことから提携に至ったものである。 1926年9月16日、信濃電気と日本窒素肥料の共同出資によって信越窒素肥料株式会社が長野市大字吉田に設立された。資本金は500万円で、300万円を信濃電気、残り200万円を日本窒素肥料(うち130万円は機械設備などの現物出資で充当)が出資した。初代社長は信濃電気側から越寿三郎が就いている。工場については既設の柏原工場を利用する案なども検討されたが、新潟県側の中頸城郡直江津町(現・上越市)の日本石油直江津製油所跡地に新設すると決定された。新工場は同年11月に着工。工場建設に際しては、金融や電力を含む原料の手当てを信濃電気が、工事と完成後の操業は日本窒素肥料がそれぞれ行うという分担が取り決められた。 翌1927年10月15日、信越窒素肥料の新工場が操業を開始した。工場にはカーバイド用電気炉6基と窒化炉24基が建設されており、操業開始と同時にカーバイド、11月から石灰窒素の製造が開始された。石灰窒素の生産能力は年間2万トンに及ぶ。ただし当初計画された変成硫安製造設備の設置については、市場における合成硫安の主流化のために中止されている。信濃電気ではこの信越窒素肥料の工場に対して最大25,000 kWの電力供給を行ったが、新工場建設と引き換えに1927年3月限りで吉田工場、同年11月限りで柏原工場の操業をそれぞれ停止して自社でのカーバイド製造を終了した。停止した柏原工場については長野電気時代の1938年(昭和13年)になって大正電気製錬所へと譲渡している。 1920年代を通じて信濃電気の経営は好調で、年率15パーセント(1916年3月期から継続)という高配当を維持できた。1928年3月期決算では不況の影響で減収となり減配を余儀なくされたが、それでも年率10パーセントを超える高配当は続いた。水力発電所の建設費が廉価である上に発生電力を地元で消化できるため送電・変電設備にも多額の投資が必要ない、という立地上の利点が業績好調の背景にある。新設の信越窒素肥料についても、石灰窒素の販売で同社自身の利益を確保しつつ、可能な範囲で信濃電気に支払う電力料金を高く設定することで信濃電気の経営に寄与することが期待された。しかし相次ぐ工場新設に伴う過剰生産と輸入硫安の急増に起因する石灰窒素業界全体の不振により、早々に信越窒素肥料の経営は不振となった。
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