作品の分析について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 00:35 UTC 版)
「アブサロム、アブサロム!」の記事における「作品の分析について」の解説
『アブサロム、アブサロム!』は、フォークナーの他の小説と同様に、南部の歴史を寓話化している。タイトルそのものが父の建てた帝国に刃向かう言うことを聞かない息子、アブサロムを暗示するものである。トマス・サトペンの人生は、南部プランテーション文化の興隆と衰退を映している。ただし、サトペンの失敗は、必ずしも南部の理想像の弱さを反映しているわけではない。しかし、サトペンは、頑なにその「人生設計」に拘り、黒人の血が入った混血女性との結婚をよしとしておらず、それが自身の破滅へと繋がっていく。フォークナーは、『アブサロム、アブサロム!』を論じて、南部の労働力が奴隷制に基づく環境下での怨念とトマス・サトペン自身の怨念あるいは弱点があって、彼があまりに強いために、家族の一部である必要がないという信念になっていると述べている。これら2つの怨念が組み合わされて、サトペンを滅ぼすことになる。 『アブサロム、アブサロム!』は、表向きの事実、伝聞による当て推量およびあからさまな推測を並置させ、過去の出来事を再現することが不可能なままであり、それゆえに想像に過ぎないことを示唆している。しかし、フォークナーは、小説の中の語り手の「誰もが真実を見ることができない」ので事実に行き着くことができないが、真実は存在するのであり、読者は最終的にそれを知ることができると述べている。 多くの批評家は、映画『羅生門』のように、語りの背後にある真実を再構築しようとし、あるいはそのような再構築が完全にはできず、どうしても打ち勝つことができない論理的矛盾があるということすら示そうとしていると述べている。その一方で、ある批評家は、小説の中の真実は既に矛盾しており、小説の筋を所与のものとして、神話や心理的原型のレベルにあるとみなすのが良いと述べている。さらに、この寓話は、人の無意識の最も深いレベルを垣間見せるものであり、そのことでその神話を受け入れる(あるいは規制される)人々、すなわち一般の南部人、特にクウェンティン・コンプソン3世を理解した方が良いと言っている。 この小説は、様々な話者を使ってその解釈を表現させることで、フォークナーが考える南部の歴史的文化的時代精神を暗示している。そこでは、過去が常に現在にあり、何度もその話を語り続ける人々によって、常に変遷していく状態にある。こうして神話を作り真実を問題にしていくプロセスを探索してもいる。本編の中でも「彼らふたりは(クウェンティンとシュリーブ)、ろくでもない昔話の断片から、おそらくかつてどこにも存在しなかったような人びとの影をつくりあげていたのだ - かつてこの世に生れそして死んでいった現し身の影ではなく、(すくなくともシュリーブにとっては)もともと影のごとき存在のそのまた影を、白い息となって目に見えるささやき声のように静かに、ふたりのあいだにつくりあげていたのだ。」と叙述されている。 この小説の全体を見る人物(正確に焦点とはなっていないまでも)としてクウェンティン・コンプソン3世を使うことは、この作品をフォークナーの初期作品『響きと怒り』の姉妹編のようにさせている。『響きと怒り』はコンプソン家の物語であり、クウェンティンは主人公の一人である。そして、『響きと怒り』の中で明白に言及されているわけではないが、サトペン家の隆盛と衰亡および近親相姦の可能性と戦う様は、クウェンティンとサトペン荘園の燃える様を目撃するミス・ローザ・コールドフィールドを駆り立てさせることになる家族内の出来事と強迫観念に似ている。 フォークナー自身は、この作品の主題について、「サトペンは自分なりに復讐しようと欲したのだが、それ以上に、一つの信念を実証してみたかったのです - すなわちそれは、人工の基準や環境のもとで一人の人間が他の人間よりも優越し威張るのは間違いだという信念です。彼は少年の時、ある大きな家を訪ねたが、その家の召使いから、裏口へ回れ、と言われました。彼は自分に誓いました。おれもあんな大きな家に住む人間になろう。そのためにはどんな手段もかまわない。かくして彼は人間の品性も名誉も憐憫の心も捨てさったのであり、そのために運命から復讐をうける。これがこの物語の主題です。」と語っている。
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