体罰に関する記録・証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:02 UTC 版)
1953年9月21日、早稲田に1-5で敗戦後、試合に出場していない学生服姿の控え選手4年生13人に「納得の行くまでレギュラーを殴れ」と命じ、下級生レギュラーだった秋山、土井らを本気で殴らせた。(明大野球部出身の野球評論家近藤唯之によると、この鉄拳制裁が逆転優勝につながったという) 1953年10月、合宿所明和寮に新設されたくみ取り式便所を「10月8日より使用を許可する」と伝達したにも関わらず、「ウン開きに仏滅は無いだろう。1日伸ばせ」とマネージャーに電話で変更を通達。これを知らなかった4年生部員の北岡徳市が8日朝8時に大便をしているのを(自身が小便をしている際に)発見しドア越しに「すぐ食堂に来い」と命じ、理由の説明もなく27発殴った。北岡はくみ取り便所のクソツボに自ら入って雑巾がけまでして謝罪した。(このエピソードは「ウンつき便所事件」として明大野球部の語り草である) 監督として初優勝をもたらした絶対的エース、秋山登には1日1000球の投げ込みを命じていた。(マネージャーに1球ずつカウントさせ、相手捕手を3度交代させつつ、6時間かけ1000球投じていた)「貴様ら若い者が1日200球で肩が痛いの、重いのと理屈を並べて恥ずかしいとは思わないのか」と顔面を5発10発殴ることもあった。 1956年、当時2年だった近藤和彦(同い年の長嶋茂雄が「最も有力強力なライバルの一人」と評した名手。プロ通算1736安打)が、合宿玄関で交際女性と電話していたのを、便意を催して駆け込んできた島岡が発見し、「この野郎、授業はどうしたんだ。女と真っ昼間から電話なんかしやがって」と近藤の顔面を5発、10発、15発と殴り、便所を挟んで「授業より若い娘のほうが大事なのか」と怒鳴り、殴られて頭がぼうっとしてしゃがみ込んでいた近藤をさらに5、6発張り飛ばした上、「出ていけ、合宿所を出ていけ」と合宿所から追放した。 1977年、後にエース投手となる2年生の鹿取義隆に1日1000球の投げ込みを命じた。(捕手の2メートル隣に島岡が鎮座して投球を数えた) 1981年、春のリーグ戦、法政大1回戦で負けた夜に部員30人を合宿所に集め、いきなり小刀を畳に突き刺し「これで全員、切腹しろ」と言い放った。 70歳を過ぎてなお、身長186cm体重98kgの体躯を誇る広沢克己を5発、10発と張り倒していた。 歴代野球部キャプテンのうち、星野仙一と高田繁の二人だけは一度も体罰を受けたことがなかったという(この二人に加えて土井淳も体罰を受けなかったとする説もある)。星野によると「(体罰を受けなかったのは)高田さんは真面目だったから。俺は要領がよかったから」とのことだが、島岡自身は「高田は何事においても隙がなかったから殴れず、星野は殴ると理屈をこねそうだったから」とも語っている。 辻佳紀は「顔の形が変わるくらい殴られたこともあったが、勝ったりいいプレーをしたりするときの喜び様はもうたいへんなもので、そんな純真な監督を喜ばせたくてがんばりました」と言っている。 土井淳によると「選手が何だかわけもわからず殴られて悔しい気持ちで部屋で沈んでいると、ついさっき自分が体罰をしたことをケロリと忘れて、どうだい元気かい? なんて言いながらお菓子をもって部屋にニコニコ遊びにくるような、本当にさっぱりした性格の監督でした」という。
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