会社成立から原爆投下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:21 UTC 版)
(左・被爆前、右・被爆後)被爆前後の八丁堀周辺。横断する道路が本線が通る相生通り。左から2番目の道に当時白島線が通っていた。戦後その一つ右側の道が白島通りとして整備される。 当時の国の政策により、1942年(昭和17年)1月30日に 臨時株主総会で、運輸部門の分離を可決。同年2月2日に、内務省および鉄道省に軌道譲渡許可申請を、鉄道省に地方鉄道譲渡許可申請・旅客自動車運輸事業譲渡許可申請を各省庁に申請した。同年4月4日に、各運輸事業に関する、譲渡許可が下り、1942年(昭和17年)4月10日、広島瓦斯電軌の交通事業部門が分離して広島電鉄となった。この年、600形(初代)、650形が導入された。1943年(昭和18年)12月に現在の江波線の一部となる土橋 - 舟入本町間が開通。1944年(昭和19年)6月に舟入本町 - 舟入南町間が単線で開通。翌7月に宮島線の廿日市 - 電車宮島間が単線化。その線路を使い、12月に皆実線が開通。1945年(昭和20年)3月に舟入本町 - 舟入南町間が複線化された。この頃には、現在の路線網がほぼでき上がった。 その頃集電装置も技術的な進歩があり、市内線に関して1940年(昭和15年)4月より白島線で、100形4両にビューゲルを、200形1両にパンタグラフを装着し、試験開始。1944年(昭和19年)8月までに全車両に取り付け、火花が飛びやすく敵の標的になりやすいトロリーポールを置き換え、日本国内初のビューゲルの本格的実用化に成功した。宮島線についても、1943年(昭和18年)3月に、集電装置をトロリーポールからパンタグラフに交換した。また、ビューゲルの金具の実用新案権(実用新案登録第355463号)も取得した。 1945年(昭和20年)6月には、電車の疎開のため桜土手引込線が整備され、戦災を防ぐために宮島などを含め分散留置された。 そして、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が広島市に投下された。人類が経験したことのない未曾有の被害であった。原爆投下で本社は半壊。広島市内にあった広電の建物は1棟を除き50棟すべて損壊した。当時は1,241人在籍していたが、185人が死亡、266人が負傷した。路面電車車両も、在籍していた123両のうち108両被災した(全焼22・半焼3・大中小破83)。軌道の被害は28,150mに及んだ。
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