人質の待遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 10:03 UTC 版)
「イランアメリカ大使館人質事件」の記事における「人質の待遇」の解説
イラン政府及び学生と暴徒たちはこれらの人質を「ゲスト」と称し、穏健派のアボルハサン・バニーサドル暫定外相に視察に行かせたほか、「非常に気をつけてもてなしており感謝されている」と国内外のメディアに対して報じさせた。 実際は人質になった外交官と海兵隊員、その家族らはスパイ容疑をかけられ、大使館の敷地内にある建物の中に軟禁状態に置かれ、通信や行動の自由を奪われただけでなく、占拠当初より興奮した学生と暴徒たちから暴力を受けるなどした。さらにその後も、人質の私物の窃盗や私語の禁止のみならず、殴打や手足の拘束、長期間の独房や冷凍庫内への監禁、さらには2人の海兵隊員に目隠しをしたまま、見せしめのために大使館前のパレードを行うなどの行為を受けていた。 これらの行為を受けて、4人の館員が逃亡を試み、2人の館員が自殺未遂を起こしたほか、1人の館員がハンガーストライキを行った。 また、アメリカ大使館占拠当時イラン外務省に出向いていた3人の大使館員は、大使館占拠後数か月間外務省内に軟禁され、食堂で宿泊し浴室で下着などを洗濯することを余儀なくされた。さらに11月4日に、この事件の早期解決を望んでおり、政府内保守(革命)派と対立していたとされる暫定政権のバーザルガーン首相が辞任した後は、外務省内に軟禁された大使館員は部屋の外への出歩きが制限されるなど、行動範囲がさらに制限されるようになった。 なおその後、人質に対してカナダや西ドイツなどの中立国かつアメリカの友好国の外交官による接見が認められた。この機会を通じて、人質となった館員とアメリカ国務省の間の秘密連絡が数度に渡り行われた。 また、11月9日には、「抑圧された少数民族と女性への心遣い」と称して、2人のアフリカ系アメリカ人の男性館員と、1人の白人女性館員が釈放されたほか、同月にはもう1人アフリカ系アメリカ人の館員が釈放された。しかし他のアフリカ系アメリカ人の男性館員と女性館員は、最後まで釈放されないままであった。また、1980年7月には、1人の館員が重度な多発性硬化症と診断されたことで解放された。 1980年の夏以降は、人質に対する食糧配給やその他の管理効率の向上という名目、実際は逃亡やアメリカ軍による救出を困難にするという目的で、人質の一部がテヘラン近郊の刑務所に移された。1980年11月から解放までの期間は、浴槽と温水シャワー、洗濯機などが完備された、元秘密警察の長官で1970年8月に暗殺されたテイームール・バフティヤールの屋敷に集められ軟禁されることになった。
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