京都のホテルの歴史
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「京都ステーションホテル」の記事における「京都のホテルの歴史」の解説
日本初の本格的なホテルは、1869年(明治2年)にホテル専業となった横浜ホテルである。京都初の外国人専門宿泊施設は祇園の中村屋(現中村楼)であり、1868年(明治元年)に洋間8室を備えた新館を設けたが、尊王攘夷の風が吹き荒れる京都に宿泊する外国人は少なかった。1872年(明治5年)には知恩院と建仁寺で内国勧業博覧会が開催されたが、一般外国人の宿泊場所としては円山と下河原の日本旅館があてがわれている。1877年(明治10年)には八坂神社前に自由亭ホテルが開業し、西洋料理を看板にして外国人宿泊者の獲得を目指した。1881年(明治14年)のマレー (出版社)の『日本案内記』初版には全国のホテル一覧表(全27軒)が記されており、京都では自由亭、也阿弥、中村屋の3軒が挙げられている。1891年(明治24年)の第3版では常盤ホテル(京都ホテルの前身)、也阿弥ホテル、中村屋の3軒となり、自由亭は姿を消した。1903年(明治36年)の『チェンバレン日本帝国小史』第7版では也阿弥ホテル、京都ホテル、都ホテルの3軒となった。これらは外国人による宿泊案内であり、ホテルと旅館の区別を行っていないことに注意が必要である。 円山公園内に也阿弥楼が開業したのは1881年(明治14年)であり、江戸時代より宴席だった安養寺の塔頭を改造した純和風2階建の割烹旅館風だったが、屋根の看板には英語で「HOTEL」と書かれており、イギリス流の洋食が提供された。新聞で「也阿弥ホテル」と表記されることはなく、実態は和洋兼用の料理旅館だったとされる。経営者は外国人観光客のガイドをしていた長崎出身の貿易商・井上万吉(1835年生)。1889年(明治22年)には東京から神戸まで鉄道が全通し、観光客を期待する京都では本格的なホテルの誕生が熱望された。河原町二条の勧業場跡地にホテルの建設が計画され、琵琶湖疏水の第一期工事完成に間に合わせるように1890年(明治23年)4月14日に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が開業した。開業当初は「京都ホテル」「京都ホテル常盤」「常盤楼」の表記が併用されたが、1891年(明治24年)以降は「常盤ホテル」表記が定着し、この常盤ホテルが京都初の本格的なホテルとされる。1891年5月11日には、常盤ホテルに滞在していたロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が巡査に切りつけられる大津事件が起こり、事件後には明治天皇などが常盤ホテルを訪れてニコライ皇太子を見舞っている。 1895年(明治28年)には第4回内国勧業博覧会が開催され、また平安京遷都1100年や平安神宮創建などの行事が重なって多数の入洛客が予想された。也阿弥ホテルの経営者井上萬吉の弟である井上喜太郎が常盤ホテルの経営権を獲得し、3月6日、常盤ホテルは京都ホテルと名をあらためて営業再開した。1900年(明治33年)10月には蹴上に都ホテルが開業し、1901年(明治34年)には大澤善助により也阿弥楼が洋式ホテル化して也阿弥ホテルとして開業した。京都ホテル、都ホテル、也阿弥ホテルの3ホテルが競合する時代を迎えたが、也阿弥ホテルは火災を繰り返したため京都市に用地の返還を命じられ、1905年(明治38年)には閉業した。1915年(大正3年)時点の各都市のホテル数は、雲仙8、神戸8、横浜7、東京6、長崎5、軽井沢3、京都3、有馬3、日光2などであり、100人以上を収容可能なホテルは全国に9棟しかなかったが、このうち2棟(京都ホテル・都ホテル)が京都にあった。 1902年時点の京都のホテル名称所在地開業年部屋数最大収容備考京都ホテル 河原町二条 1895年 63室 120-150名 都ホテル 蹴上 1900年 43室 76-100名 也阿弥ホテル 円山 1901年 53室 106-125名 1905年閉業
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