事件後の議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 02:50 UTC 版)
「リトアニアにおけるホロコースト」の記事における「事件後の議論」の解説
1941年夏に始まったリトアニアでのジェノサイドは「ユダヤ人問題の最終的解決」を実行した最初期の例であると歴史学者は見ている。実際、ドイツによるホロコースト政策はリトアニアから始まったと指摘する者もいる(他方で、ホロコーストは第二次世界大戦が開始した1939年9月に始まったとする見方もあり、また1938年にドイツ各地で起きた、いわゆる「水晶の夜」をもってホロコーストが始まったとする学説もある。さらにオンライン百科事典の "Jewish Virtual Library" に至ってはホロコーストの発端を1933年のヒトラー総統就任にまでさかのぼる)。 ソヴィエト政府は、政治的理由から、ユダヤ人が受けた苦難を少なく見積もってきた。リトアニアやその他ソ連各地にあった記念碑にはユダヤ人の犠牲に関する言及はなく、これらはただ「現地住民」の苦難を追悼するためのものとされた。そしてユダヤ人迫害のためにナチスに協力した者や罪を犯した者が厳しく処罰されることはなかった。 1990年に独立回復宣言をし、翌年にソ連からの独立を回復したリトアニアでは、リトアニア人のホロコースト関与をめぐる議論は起こされにくい状況にあった。ナショナリストらは勇敢にソヴィエトに抵抗してきた「英雄」たちの歴史を強調したが、他方で対ソヴィエト抵抗運動に関わったパルチザンのメンバーの一部はナチスの協力者でもあり、リトアニア・ユダヤ人の殺害にも携わっていたのであった。冷戦後のリトアニア政府はホロコーストの犠牲者を追悼し、反ユダヤ主義と戦い、そしてナチス時代の戦争犯罪を裁く旨の声明を何度も出している。ソヴィエト・ユダヤ全国会議(英語: The National Conference on Soviet Jewry、NCSJ)は「リトアニアはナチ・ジェノサイドに協力したリトアニア人の訴追に関する法整備において、ゆっくりだが重要な進展を遂げている」と評価している。また、旧ソ連諸国の中でリトアニアは、ホロコーストに関連する土地の保存、記録に関する法律を制定した初めての国となった。1995年、アルギルダス・ブラザウスカス大統領はイスラエル議会で演説を行い、リトアニア人がホロコーストに関わったことについてユダヤ人に公式に謝罪した。2001年9月20日、リトアニアのホロコースト60周年を記念するリトアニア議会で、アルフォンサス・エイディンタス次期イスラエル駐在リトアニア大使がリトアニア・ユダヤ人の絶滅に対する責任に言及した。 リトアニアはこの問題を長引かせている、との批判もなされる。例えば、2001年にサイモン・ウィーゼンタール・センター (Simon Wiesenthal Center、以下、SWC) 所長のエフライム・ズロフ (Efraim Zuroff) が、リトアニア政府はホロコーストに関与したリトアニア人の訴追に対して消極的であると非難している。2002年には SWC がリトアニア政府の取り組みに不満を表し、戦争犯罪人の訴追につながる証言者に懸賞金を提供する「Operation Last Chance」運動を開始した。リトアニアや他の旧ソ連諸国ではこれに対して反対運動も行われるなど、物議を醸した。近年では、リトアニアの戦争犯罪人が裁判で審理されることになった際に SWC がその行方を特に重要視していたが、2008年、SWC は年間報告書の中で、リトアニアの司法機関がホロコーストの犯罪人に対して処罰を下さず、何ら状況は進展していないと指摘している。 リトアニア人の記憶の中で、ホロコーストをどう位置づけるかについてはほとんど議論されてこなかった。数百人から数千人のリトアニア人が個人的にあるいは職務として自らホロコーストに関与した明らかな証拠があるにもかかわらず、リトアニア人は長らく集団としてのホロコースト関与を否定してきており、実際ジェノサイドに関与したリトアニア人は歴史の中の極端な例外として扱われてきた。アルフォンサス・エイディンタスやヴァレンティナス・ブランディシャウスカス (Valentinas Brandišauskas) 、アルーナス・ブブニース (Arūnas Bubnys) などによる研究よりここ20年間リトアニアの歴史研究はソヴィエトの研究と比較して大きく改善され、欧米やユダヤの歴史研究者からは好評価を得たが、それでも当時の記憶やその時の出来事に関する議論はユダヤ人による研究とリトアニア人による研究のあいだでかなり異なる。リトアニアの歴史学者によれば、リトアニア人行動主義戦線やリトアニア臨時政府の役割、あるいはリトアニア人市民の自主的な関与をめぐって今日まで議論は続いている。
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